疑惑 強欲の仕手「鈴木義彦」の本性

第4章 西の遺言

平成22年2月9日頃、西義輝は妻の実家がある秋田県の別荘で自殺していた。秋田県警の警官が「こんな自殺の仕方は初めて見た」というほど壮絶な死に様だったようだ。
西は、自殺を実行する前にA氏を始め、鈴木を含めて20人前後に「遺言」らしき手紙を書いていた。関係者の許可を得て鈴木へ書いた手紙の一部を紹介する。
西は鈴木に対して、
「二人だけではなし得なかったことをA社長に全面的に資金面の協力をしていただいて成功した数々の株取引・・・」
「私亡き後、貴殿はA社長に対して言い訳も一切できないし、今までのように逃げ回ることもできなくなる。貴殿がすることは、ひたすらA社長にお詫びをして約束を実行するだけである。この私の忠告を理解できないのであれば今後、貴殿は間違いなく私より、もっと辛いそして苦しい結果を迎えることになる・・・・」
「今から文章に残すことは全て真実であり、貴殿の身内関係者だけでなくマスコミ及関係各所にも貴殿の今後のやり方如何では大きく取り上げられる事を先に述べておく・・・」
「社長と私、貴殿の三人で合意したいくつかの約束事に関する裏切行為、私のあさはかな考えから貴殿の狡賢さにコントロールされ、社長に大変な実害や信用を傷つけた件、社長を利用することにより与えた大きなダメージなど、貴殿と私でおこなった社長への大きな裏切りを考えたら私の一命をもっても償えることではない・・・」
「私のこの手紙の内容については貴殿が一番わかっていることだ。社長及私の助けだけで誰も協力してくれなかったころの貴殿を今一度しっかり考えるべきである・・・」
「貴殿が株取引で手にしたお金の内、2/3は合意書に基づいた社長および私の預かり金であることを忘れてはいけない・・・」等、その他「合意書」や「和解書」のこと「志村化工事件」のこと、「株取引で400億以上の利益を上げて隠蔽している」こと等、鈴木と出会ったころからの事が書かれていてA氏に対してお詫びは勿論、相当の覚悟をして自分の命を絶つ覚悟が18枚の便箋に書いてある。
筆者はどうしても西に言いたい。私だけではなくA氏の関係者、ネット記事の愛読者の方々も同じ思いだろう。
「西さん、そこまでの覚悟をしていたのなら、何故生きて鈴木と対決しなかったのか。それだけA氏に申し訳なく思っているなら、何故鈴木の共犯者として法廷ですべてを話さなかったのか。鈴木は貴殿が自殺したことをいいことに、肝心なことは貴殿のせいにして自分に都合のいいように嘘の主張を続けた。結果、裁判官の明らかな誤審もあって、裁判は鈴木の勝訴で終わってしまった。A氏に世話になった人たち、友人、関係者の方々は「勿論これで終わらせるわけにはいかない」と今後のことを協議し、準備している。
西が経営していたTAH(東京オークションハウス)での鈴木との出会いから始まって親和銀行事件の事、FR社に絡む株取引、特にA氏から借りた資金の事、「合意書」の事も書かれている。この手紙を読んでいると、A氏にいかに世話になったか、A氏を裏切ったことへの深い後悔、鈴木への忠告、怨嗟が書かれている。読んでいて辛い思いがすると共に、鈴木の非道さ、悪辣さに改めて怒りを覚える。
しかし、西も最後は自裁をして果てた。厳しいようだが同情の余地はない。鈴木と同じとは言わないが、A氏とは付き合いが長い分、出会ってから世話になりっぱなしで何の恩返しもしていない。それどころかA氏が鈴木に融資した資金の一部を流用していた節がある。西も金の盲者であったのだ。

西の回想録
西義輝が残した「鈴木義彦との出会いから現在」というレポートがある。このレポートそのものは法廷に提出されなかった。何故原告代理人弁護士が提出しなかったのか不思議でならない。明らかに代理人弁護士の手抜かりではなかったかと思わざるを得ない。
西は、1995年(平成7年)10月6日に恵比寿ウェスティンホテル2階にある中華料理「龍天門」の個室で鈴木と会った、という書き出しのレポートは、西が平成7年10月~平成18年10月までの11年間を綴ったものだ。
「平成8年4月頃、長崎にある親和銀行に大きな問題が起こっていて、問題解決に協力してFR の資金繰り悪化を打開するために新たな資金を親和銀行から調達したいという相談を持ち掛けられた。鈴木はこのことを必死で考えていた」
この件については親和銀行事件のところで詳しく書いたが、鈴木は平成10年5月31日に不正融資事件で警視庁に逮捕された。その結果、有罪判決(懲役3年執行猶予4年)を受けた。この事件でも鈴木は持ち前の悪党ぶりを充分に発揮するのである。総会屋や某暴力団組長と組んでマッチポンプを仕掛けて脅かしをかけて、価値のない不動産(山林40万坪)や偽造ダイヤモンドを担保に莫大な金額を融資させた。また鈴木は、親和銀行を安心させるために同銀行の頭取や東京支店長を守るという約束が必要だった。そのために西が紹介した有名な弁護士、田中森一(故人)を親和銀行に紹介し、田中は顧問弁護士に就任した。の肩書を利用して32億円という追加融資もさせた。不正な融資合計は100億円以上だといわれている。
まさに稀代の詐欺師である。しかもこの時も100億円以上の融資金の返済をしていないし、最初から返済する気はなかったのだろう。ただ、最終的には損金補填という名目で17億円の示談金を払わされた。それでも融資額の約17%である。その金はどこから出てきたのか? 時期が前後するが、鈴木が山内興産の社長、末吉和喜氏を騙して預かった「タカラブネ」株200万株(20億円相当分)の返還をめぐって起こされた訴訟でも和解交渉を進めていた鈴木は末吉社長に対して約4億5000万円(総額の22%)の返済額を提示して和解に持ち込んだ。その和解金の出どころはどこなのか? どちらも隠匿している資金の中から支払ったと思われる。この示談金額は紀井氏の証言にもあったように一般の貸借では「鈴木は貸した側の弱みに付け込んで借りた金の5%から10%しか返さない」という鈴木の狡い悪性が出ている。鈴木の本領発揮である。それとこの2件の示談成立には当時代理人をしていた長谷川元弁護士が深く関わっていた。
「親和銀行特別背任事件」の裁判資料に鈴木の犯した罪の内容が書かれている。裁判官たちは鈴木という人間を知るために何故、参考にしなかったのか。それをしていればこんな判決を出さずに済んだ。いや、裁判資料は読んだが目をつぶってしまった可能性もあると思われる。その根拠は今後に書く【裁判所の状況】を参照すれば御理解頂けると思う。
親和銀行事件で逮捕、起訴された後、鈴木は表向きにはFR社の代表権が無くなり、保有株の名義もなくなったが、実際はそうでなく「なが多」「クロニクル」と社名を変更する中で常務(その後は代表取締役)の天野裕に指示してユーロ債の発行や第三者割当増資を実行させるという影響を行使していたのだった。天野氏が自殺? していなければ、このことも明るみになっていただろう。
宝林株で巨額の利益を獲得して勢いづいた鈴木と西は「今後のM&Aの専門的な会社を作る必要がある」と考え「ファーイーストアセットマネージメント」(FEAM社)を資本金5000万円で設立した。「ユーロ債発行会社との交渉やコンサルティングを会社設立の目的」としたが、鈴木は実に自分勝手な要求を西に出した。その一つが専用車と給料の提供で、「鈴木は『FEAM社より専用の車と専属の運転手を用意してほしい。』と言い、さらに『収入があることを見せたいので給料を出してほしい』とも言った」。何を考えていたのか言いたい放題であったと関係者は言う。そして「関西のグループとの付き合いもあるので私も見栄が必要になってくるから車はベンツにしてほしい」と横着な要求には果てが無い。ベンツ購入代金が1400万円、運転手の給料が1999年9月から翌年12月までで1200万円、燃料費、維持経費で250万円、給料に至っては2250万円も払ったという。さらに毎月の給与として鈴木の父親に60万円、愛人に50万円でそれに伴う費用が合計2000万円。また、鈴木と大石(FRの専務)は親和銀行事件で公判中だったこの当時に鈴木は、西に大石の口封じをしたいと言い出し、口止め料として5000万円を大石の妻に西を介して渡した。しかし、その後大石は車の事故で死亡した。これも偶然の事故だったのか。常務の天野氏の京王プラザホテルでの自殺(会社発表は自宅で急死)と同様だ。隠匿している自分の金は絶対使わないで、西に無理を言うとんでもなく狡い人間だ。西は何故こんな我儘を許したのか。すべては「利益折半」の約束のためだったのか、それとも鈴木に弱みを握られているとしか考えられない。西にこんな資金があるはずはない。同社にも約7億円をA氏に融資してもらっている。この二人は本当に呆れるほど酷い人間だ。

鈴木と西の密約
以下は、西の回顧録からの抜粋である。
西は、鈴木に連絡して2001年(平成13年)11月に鈴木が借りたホテルオークラのエグゼクティブフロアーの一部屋にて鈴木との間で、英文による契約を結んだ。それは「この契約日から5年以内に、総利益の内の経費を引いた3分の1を、契約に基づいて西義輝に支払う。但し、年に一度は利益の推移を必ず確認することとし、契約期間は2006年11月末日までとする」という内容だった。この書面はA氏と西、鈴木が交わした「合意書」とは違い、A氏の名前がない。その理由として鈴木は「以前にA社長とは14億円の利益配分をしているのでこれ以上を支払う必要性は無い。但し、借りている18億円(実際は元金28億円超)に関しては、解決の方法は考えているから」と西に言ったという。鈴木は常々、「鈴木は、国内にはいないと言ってほしい。名前は出さないでほしい。FR社を絡めた部分で300億円の個人補償をしているので表に出るわけにいかない。また、ユーロ債の新株発行に関しては自分が表に出て行えば利益を稼ぐことが難しくなるので」とさまざまな機会で何度も西に言っていたらしい。西はその時に「鈴木は周囲の人達から逃げようとしている」ことを察知した。
西が言うには「契約書を作成することになったのは、鈴木の身勝手な言動とこれまで2年間の鈴木の行動に対する不信感からだった」そうだが、それ以上に志村化工株の大量買い付けにより、東京地検特捜部から西に捜査の手が伸び、証券取引法違反による逮捕が固まりつつあったことが原因だった。鈴木も志村化工株売買によるインサイダー容疑での逮捕が確実で、もし逮捕されることになれば、今までのあらゆることが表に出てしまい、お金の流れも暴かれてしまうことになり、努力が無駄になると西は考えた。また鈴木には親和銀行不正融資事件により4年間の執行猶予がついていたため、次に逮捕によりすべての刑が鈴木に覆いかぶさってくる。この英文契約を結ぶ条件として、西は鈴木を逮捕から守ることを約束したのだった。
鈴木は、自分に危機が迫っていることを分かっていて、何度となく西に会って必死に口裏合わせをした。そして「西会長の言うことは何でも聞きます。助けてください」と土下座までした。平成14年2月27日、西は証券取引法違反の容疑で東京地検特捜部に逮捕された。
拘置所にいる時の検事の取り調べは本当に過酷なものだった。西と検事の間でさまざまな駆け引きが行われていく中、西は保釈に至るまで鈴木のことは一言も話さず、最後まで鈴木を守った。結局、鈴木のこの件での逮捕はなかった。その年の3月末にすべての取り調べを終えて起訴された後に西は保釈された。西は、逮捕されたことはあくまで自分の責任で判断し実行した結果での失敗と割り切っていた。
志村化工株の株価操作事件の逮捕劇から西の保釈後、鈴木は今までと変わらぬ態度で接し、約束通り、保釈金の立替、毎月の生活費用(100万~150万円)、弁護士費用等を払い、裁判の結果が出るまで非常に密に意見交換を繰り返していた。仮に公判中であっても、西の言動によって鈴木の逮捕は有り得たから、鈴木の秘密を知っている西に対し鈴木は大事に扱っていた。
2003年(平成15年)の夏、西の刑が確定し、懲役2年、執行猶予3年の判決が下った。すると同年9月、鈴木から「一度ゆっくり話がしたい」と連絡が入った。西は西麻布の喫茶店で鈴木と会った。その時鈴木は西の事を「西さん」と呼ぶようになっていた。それまで鈴木は西の事を「西会長」としか呼ばなかった。西は、鈴木が裁判が終わった途端に態度を変えたことに驚いたが、それ以上に驚いた事は「西さんへの毎月の生活費の支払いをそろそろ止めたい」と言われた事だった。西はその時腹の中が煮えくり返っていたが、鈴木に「執行猶予が切れたら約束通り契約を実行していただきたい」と一言だけ言った。親和銀行事件の時には保釈中に愛人の生活費まで面倒を見ていた西にとっては当然の事だっただろう。西はその時約300億円以上の利益が積みあがっていることを鈴木から伝えられていた。西が「自分には多額の借金があり、それの清算をしなければならない。勿論A社長にも返済しなければならない金額がたくさんある。」と言うと、鈴木は「Aは俺には関係ないだろう。西さんが取り分をどうしようと勝手だが俺は14億円の分配金と10億円の借入金を返済しているのでもう全てが済んでいる。俺と一緒にはもうしないでくれ」と言ったという。それが自分の窮地を救ってくれた恩人に言う言葉なのか。流石の西もこの時は鈴木を「なんという非人間的な奴だろうと思った」と記している。西はその日はそれで終えたが、その直後から鈴木の携帯電話が繋がらなくなり、紀井氏経由でしか連絡が取れなくなった。ただ、西が必要に応じて電話すると鈴木から必ず連絡があったので少しは安心していたそうだ。筆者は、西もそうだが鈴木は呆れた悪党だと思った。
後日、西の恐ろしい裏切りが発覚した。西はこの鈴木との「密約」の一部、30億円を受け取っていた事が西の身近な人間からの取材で発覚したのだ。この金はA氏に返済された形跡もない。当然にA氏もこの事は最近になって知った事であった。この金の使途は? 今更詮索しても意味の無いことではあるが、西と鈴木、何が嘘で何が真実か、弁護士、裁判官も共謀しての大事件。A氏と関係者がこのまま泣き寝入りすることはあり得ない。

香港襲撃事件
続いて、西の回顧録からの抜粋を挙げる。
西と鈴木は2005年(平成17年)10月に東陽町のホテルイースト21のスカイラウンジで打ち合わせをしていた。(会話を再現する)
西 :「来年(2006年)の8月に執行猶予が終わってパスポートを手に入れることが出来るので徐々にお金の用意をしていただきたい」
鈴木:「今200億円程度の利益しかない」
西 :「言い訳しないで400億円以上の利益に対しての3分の1の分配金としよう」
鈴木:「株券の在庫が多く、西さんが言っている金額は全ての株券の売却をしなければ金が揃わない」
西 :「本来、当初の取り決めは、A社長、私、鈴木さんで均等にて分配するという約束であったはずですよ」
鈴木:「A社長と結んだ合意書及び借用書は2002年(平成14年)に破棄したと言ったじゃないですか」
西 :「この話は、貴方と私の間で結んだ契約書に基づいてのことですよ」
西は、これらのやり取りを総合して考えると、おそらく鈴木は自分の思っていた以上の利益を得たために、私への配分を減らすことを考え、私を丸め込めることが出来ると考えたと思う。何故かというと、会話の中で「西さん、お金に困っているのであれば1億くらいのお金を融通することは出来ますよ。どうしょうもない時は言って下さい」ということを言っていた。また、A社長の名前が出たときは「社長は関係ないだろう。貴方が取りまとめてくれるって言っていたじゃないですか、帳尻合わせは全て済んでいるはずですから」と言う言い方さえしていた。私はその時、過去を思い出した。合意書を交わして始めた株取引では、企画、発案、取りまとめに関しては私の役割で、鈴木は株式の売却の役割を担っていたが、実際の売却に関しては紀井が90%以上担当しており、また、お金の管理は茂庭の力を借りた。色々なユーロ債と口座の開設に関しては、元フュージョン社の町田、川端を使い、いつも役割ごとに人を活用していた。そんな中で、鈴木とは金のやり取りの方法に関する連絡を密に取っていたが、最終的には平成18年10月初めに、香港での約46億円の受け渡しをすることになった。鈴木は「マネーロンダリング法が脅威となっているため、香港での取引は全て現金で行わず、日本から海外に持ち出されている銀行振出の銀行小切手にて行いましょう。そして残りに関しては。海外のオフショワ口座を2社ほど開設し、その後三ヶ月以内に約90億のお金の振替を必ず実行します」と言った。そして9月30日の鈴木との会話で西は10月2日に香港へ向かうと言って、インターコンチネンタルホテル香港に宿泊すると伝えた。鈴木が「西さんが以前の打ち合わせの際に私の紹介で面会したことのあるTamという人間と香港で会い、打合せを行ってください。私も時間があれば香港に行きますから」ということを西に伝えた。
西が香港に着くと鈴木から電話が入り、「10月3日の14時にTamが香港での専用携帯を渡します。私はどうしてもやらなければならない仕事が入り香港に行けません。西さんもTamとは会ったことがあるので、今回はTamとの取引でお願いします」ということだった。その後、Tamから携帯電話を受け取り、同日の16時に香港島のリッポセンターの2Fロビーで待ち合わせをし、一部保証小切手の確認することになった。しかし、Tamが用意していた小切手は約17億円分(23枚)で、「残りの29億円は市場で今集めており、10月4日の午後には全額揃うので、責任をもって渡す」と言うので了解した。
そして、翌4日の午後8時にリパレスベイのレストランで待ち合わせすることになったが、実際にはTamが遅れ気味となり、西が近くの公園を散歩しながら待っていると、午後8時半過ぎにようやくTamが現れ、車の中で46億7000万円の小切手を確認し、オフショワ会社設立のための書類へのサインをしたほか英文契約の金額の一部変更へのサインも済ませた。西はビジネスファイルバッグに書類と保証小切手を入れ最初に待ち合わせたレストランに向かおうとするとTamからワインを勧められ、それを飲んだ直後に意識を失った。それから16時間後、西はリパレスベイの浜辺で発見されたが所持品は無く、契約書類、小切手、携帯電話もなくなっていた。着用していたスーツは破れ、靴は砂まみれの状態、とても再使用できる状態ではなかった。
3日間の入院後、西は体調の回復を待ち病院を退院した。日本領事館での説明、そして領事館から紹介された弁護士へ対応を依頼して西は帰国の途についたが、ここでもまた西は香港警察や領事館からの聞き取りに鈴木の名前を出すことは一度もなかったと西は記している。この香港行きにはA氏を一度誘っている。A氏は急な西の誘いだったが同行する用意をしていたところ、直前になって西から断りの電話が入り、何が何だか分からないまま香港行きを中止した。西はこの時、息子の陽一郎だけを同行していた。

疑惑 強欲の仕手「鈴木義彦」の本性

第5章 相場師「西田晴夫」

西田晴夫は「最後の大物相場師」と呼ばれた、いわゆる相場師である。西田グループの扱う株は「N銘柄」「西田銘柄」といわれ、証券市場を騒がせ続けた。無類の女好きとしても知られ、口説き落とした愛人にマンションを買い与えたうえ法外な生活費を渡すなど羽振りの良さでも知られていた。2007年10月に旧南野建設(現アジアゲートホールディングス)が2002年11月に実施した約12億4000万円の第三者割当増資(新株予約権)発行に関連し、同年11月~12月にかけて仮装売買を繰り返し株価を操作した金融商品取引法違反(相場操作)容疑で大阪地検特捜部に逮捕された。公判中に持病の糖尿病が悪化して脳梗塞を発症した。2010年4月に控訴棄却。2011年3月4日に死去した。
鈴木と西田晴夫との付き合いは最初の「宝林」の株取引から密接で、西による株価の買い支えは勿論あったが、西田グループによる活発な株売買によって、宝林株はピーク時で2300円の値を付けた。西は1株37円で宝林株を取得することに成功していたから、実に63倍近い値で売却したことになる。それゆえ鈴木は銘柄選びや株取引で西田グループを大事にしていた。
2000年(平成12年)、FRの株を1株50円で約50億円のユーロ債を発行し、100~360円で売却、西田グループには割り当て株を譲渡して協力を依頼していた。
2000年5月に実行された「アイビーダイワ」という銘柄で鈴木は西田グループと共同で株価を操作した。これは鈴木が主導して行ったわけではなく、西田グループの東京事務所で秘書をしていた白鳥女史が中心となって行ったことだった。およそ70%を白鳥女史、20%を鈴木、残りを西田グループの出資にて、およそ12億円(1株50円で2400万株)のユーロ-債を発行した。従って鈴木が引き受けた金額はおよそ2億4000万円であった。鈴木はこのこともA氏へ報告していない。その後、株価は700円前後にまで高騰した。鈴木及び西田グループによる株価操作である。大変なIR活動、国内の証券新聞および投資顧問会社等への資金提供により、一般投資家に多額の購入を持ち掛けた結果である。
この件で中心人物であった白鳥女史はこのユーロ債で15億円以上の利益を上げることが出来た。ただ、白鳥女史にSEC(証券取引等監視委員会)及び国税庁(東京国政局?)から内定調査が入り、彼女は2002年(平成14年)にヨーロッパへ逃亡し、未だ帰国が出来ない状況にあったという。ちなみに鈴木は西が経営するTAHの第三者割当増資の際に西から要請を受けたものの自分の資金を使わず、この時多額の利益を上げた白鳥女史に2億円の増資(出資?)を実行させている。
しかも鈴木は西との間で利益を折半すると約束していながら、実際には西に対しても利益分配を先延ばししていたことがFRやアイビーダイワという2件の株取引の現場を見ただけでも分かる。西が分配に与ろうとしてTAHの第三者割当増資を持ち掛けても、鈴木は自身では一切協力することなく白鳥女史に2億円を出させた。全く抜け目がなく、西の要請をも狡猾にすり抜けている。鈴木に株の売り抜けを任されていた紀井氏は「鈴木の人間性を見ていて金への執着心は恐ろしいほど強い」と言う。鈴木は本当に酷い男である。これでは周囲の人間が離れていくのがよく分かる。
こんな人間を罰せられない裁判官たちの判断が許せない。このような裁判官がいる限り今後も不審な事実認定や判決が続くのかと思うと一層不安になる。
西田グループの「総師」である西田晴夫(故人)については余りにも有名である。同人が手掛けた銘柄として有名になった株の過半数は鈴木が多額の利益を上げた銘柄と一致している。また株取引への取り組み方として、西田は自らの証券口座だけでなく銀行口座さえ持たずに周辺関係者の口座を使うこと、預金や不動産などの個人名義の資産もほとんどなく、周辺関係者の口座に溜まった潤沢な資金のみだったという。そして無類の女好きだった。鈴木がそっくりそのまま手本にしている。社債や株式の取得名義人は鈴木がオフショワ(海外の新興国)のタックスヘイブン(租税回避地)に用意した外資系資本会社を装うペーパーカンパニーであり、株価を高値誘導するのは西(A氏資金)や西田グループ、そして取得した株の売却を任された紀井は外資名義で証券金融会社を経由して取引することで鈴木の名前が出ないよう二重三重の煙幕を張る慎重さだった。
恐らく鈴木は株取引で西田氏の相場作りでの協力を得るだけでなく、その取り組み方すら取り込んでいたに違いない。鈴木のような詐欺師、強欲な仕事師と呼ばれる悪党はやはり計算高く、狡猾だということだろう。しかしそんなことが永遠に続くことは無いことを胸に刻むべきだろう。汚れた資金を次代に残しても外為法違反、脱税等のレッテルが張られた金をどうするのか。何の役に立つと考えているのか。鈴木は未だにヨーロッパに逃避行中で西田氏の愛人といわれる白鳥女史をも取り込んで西田氏の「資産」も鈴木が取り込んでいるのではないかと言う関係者も多くいる。

裁判所の状況
裁判官の実態を明らかにする書籍が少なからず出版されている。問題判決を実例として取り上げて裁判官の姿勢を問い、原因を探る内容が書かれているので、いくつかの例を引用する。
「絶望の裁判所」「ニッポンの裁判」ほか「民事訴訟の本質と諸相」「民事保全法」など多数の著書を上梓している瀬木比呂志氏は1979年以降裁判官として東京地裁、最高裁等に勤務してきた経験から「日本の裁判所には、戦前と何ら変わりのない上命下達のピラミット型ヒエラルキーが存在していて、その結果、「何らかの意味で上層部の気に入らない判決」あるいは「論文を書いたから」という理由で突然左遷されるという。異動の辞令を受けた裁判官は何故左遷されたのかという基準が分からず、また、どの判決文によって反感を買ったのかを推測するしかないないからいつ報復されるかも分からない不安に駆られるために、多くの裁判官は上層部の顔色ばかり窺っていると言うのだ。「判決の内容は間違っていなくても、上層部の気に入らない判決を書いたという理由で人事に影響する。裁判所には“自分の意見を自由に言えない”と言った空気が蔓延しているので組織が硬直してしまっている」と瀬木は「裁判所の状況」を憂慮している。
「裁判所の服務規定は明治20年(1888年)に作られたもので、休職は勿論、正式な有給休暇の制度すらない」「かつての裁判所は、平均的構成員に一定の能力と見識はあったので「優良企業」だったが、今の状況では「ブラック企業」と呼ばれても仕方がない」という。(以上ITmediaオンラインのインタビューより)
「いい裁判官とは? 普通に言えば、質の高い判決文を書ける裁判官のことだが、実際の評価基準は、『どんな判決文を書いたか』ではなく『何件終了させたか』です」と中堅弁護士がコメントしている。
「裁判所では、毎月初めに前月末の「未済件数」が配られる。裁判官の個人名は記されず、「第〇部〇係、〇件」とあるが、どの裁判官がどの事件を抱えているかは周知の事実。前月の件数と差し引きで、誰がどれだけ手掛けたかがすべて分かる」と言うのだ。
また中堅弁護士もPRESIDENT誌(2012年12月3日号)に次のような一文を寄せている。「事実上これが彼らの勤務評定。判決文を何百ページ書こうが、単に和解で終わらせようが、1件は1件。和解調書は書記官が作るから、同じ1件でも仕事はすべて書記官に押し付けることが出来る」
本来、裁判官は「準備書面を読んで、事実関係を整理し、理由と結論を書くべき」としながら「きちんとした判決を書けない裁判官が、準備書面をコピー&ペーストして判決文にしてしまうのが横行している」(前出瀬木氏)という。
本稿で問題にしている裁判官も「合意書」の有効性や実効性については鈴木側の主張を丸呑みした格好で西や紀井氏の陳述を軽んじたり無視をして否定したのではないか。さらに東京高裁に至っては、第二審として独自の検証をせず、見解も示さないまま、ただ地裁判決文の誤字、脱字などの誤りを訂正しただけという余りにお粗末な判決を平然と出した。貸金返還請求訴訟の判決は誤審を重ねたあげくの誤判であるとする所以だ。

誤 審
①裁判官は「合意書」に基づいて鈴木と西が株取引を実行した痕跡が見られず何より平成18年に「和解書」が作成されるまでの7年間に株取引に係る三者の協議が行われたという具体的な証拠も出されていないと言って「合意書」の有効性や実効性を否定した。しかし、A氏側には以下の通りの理由があった。
*西が鈴木に頼まれて「鈴木は海外に出ている」「都内のマンションの1DKで一生懸命頑張っています」とかの報告をさせていて、故意にA氏と会わないようにしていた。
*A氏は何度となく興信所を使って鈴木を探したが居場所が分からなかった。
*鈴木は住民登録しているところには住んでいなかった。
*利岡が興信所を使って尾行もさせた。麻布の高級マンションに愛人と住んでいたことが分かったが、それに気付いた鈴木は青田を使って売却させてしまった。ちなみにこのマンションの名義は鈴木がオフショワに作ったペーパーカンパニーだった。
*鈴木は株取引のスポンサーであるA氏にも電話番号を教えなかった。
*父親の住む地元警察から電話した際に「明日電話すると」言ったにもかかわらず電話はかかってこなかった。
以上の理由だけでも7年間の空白は埋まる。そういう証拠は審理の場に提出したが裁判官は採用しなかった。何故、裁判官は判断を誤ったのか。
鈴木と西が仕掛けた株取引で、鈴木は徹底して自分の存在を消しにかかった。自分の名前を表に出さず、ユーロ円建転換社債(CB)や第三者割当増資による株式の取得はペーパーカンパニーの外資名義で行い、市場で西が株価を高値誘導するとタイミングを捉えた紀井氏が投資会社や証券担保金融業者を経由させて売り抜ける。これら一連の取引に鈴木は名前を出さなかった。それゆえ西が志村化工株の相場操作容疑で逮捕された時も西が鈴木の関与を白状しなかったために鈴木は逮捕を免れた。東京地検特捜部が必死で探しても逮捕されなかったぐらいだから、A氏側が居場所を探しても解らなかったのは無理がないかもしれない。そうした密室のような状態の中で、鈴木がスカウトした元山一証券の茂庭に株取引の利益金を海外に送金させる仕組みを作らせ管理をさせていた。そして西が買支えて高値誘導した株を紀井氏に売らせていた。鈴木は茂庭と紀井氏は事務所も別にさせ接触をさせなかった。限られた人間によって仕事を分担し、スタッフ同士の会話もなく株取引が行われた実態を裁判官は何ら検証もせず、紀井氏をただの「電話番扱い」に出来るのか。紀井氏には甚だ失礼な話ではないか。「合意書」と「和解書」を無効と判断した根拠が、被告側の準備書面をコピー&ペーストしたことにあったのではなかったのかと邪推せざるを得ない。

(平成18年10月24日付で紀井義弘が作成した確認書。鈴木が仕掛けた株取引の銘柄とそれぞれの獲得利益の明細が記された)

鈴木が取得した株の売りで専従していた紀井氏は平成18年当時、平成11年から同18年までの 7年間で利益が470億円以上と明言していた。鈴木は紀井氏をスカウトする際には合意書に違反して「利益を折半しよう」と言っていたが、実際には1/10どころか1/100にもならなかったと紀井氏自身がこぼしていたという。そのころの紀井氏の収入は6000万円ぐらいで、鈴木はその100倍以上の60億円以上を毎年のようにオフショアカンパニーにたくわえていながら税金は一切払っていなかったとみられる。紀井氏が一人で株を売っていたのは事実である。株を高値で処分しているからこそ全ての個々の銘柄で出た利益は把握できていた。返す返すも残念だが、何故裁判官は紀井氏の証言を軽視してしまったのか、鈴木側に紀井氏の証言を否定できるだけの証拠があったのか。恐らく鈴木はいつものように「そんな事実はない」と一言、言っただけだろう。それを採用した裁判官には呆れるばかりだ。
また、紀井氏は、西に実際の株の動きを話し、470億円の利益が上がったことを話し、その時に扱った銘柄と銘柄別の利益まで書いた「確認書」を作成して裁判所に提出したが、何故か裁判官に採用されなかった。その後、紀井氏は鈴木のもとを離れ、西の香港の事件を聞いたことで自分の身に危険を感じて行方をくらました。鈴木と一緒に株取引の仕事をしてきて鈴木の周囲で起こった事件や不審な出来事を知っていたし、鈴木に裏仕事を頼まれていた青田光市の事もよく知っていた。
茂庭も、西が鈴木の株取引に疑問を感じて調べ始めたころに紀井氏と同じく鈴木の実際の株取引に関する470億円の利益金について教えてくれた人物だ。鈴木が、自分が表に顔を出さないようにするためにスカウトした茂庭は、元山一証券のスイス駐在所長で山一證券は1997年に自主廃業したが、簿外損失が2000億円を超える額まで膨らみ、損失を隠すための現場がヨーロッパ各国にあり、茂庭も簿外損失を隠す中心的な役割を果たしてきた経緯があったことから、そのノウハウは鈴木にとってまさに利益隠匿で大いに役に立ったはずであった。紀井氏が株の売り専門なら茂庭は鈴木が海外に送る利益金を管理する立場にいた。茂庭はFEAM社の一部屋を使って仕事をしていたが、鈴木が西に茂庭の仕事内容を詳しく話すことは無く、却って遠ざけるようにしていた。しかし西は自殺をする前に茂庭にも手紙(遺書)を送っていた。内容は、「A社長、私、鈴木と交わした合意書に関して、未だ何一つ実行していない鈴木を私は許すことが絶対できません」と綴り、さらに「茂庭さんもしっかりと事実の確認をしていただき、鈴木氏と一緒に仕事をするには自分の立場を良くわきまえて行動することが大事です」と忠告している。
西は、鈴木の数多くの場面を見てきている。裁判の判決にも大きく影響するほど鈴木の実態を事実に基づいて明らかに出来たに違いない。最低でも鈴木が言いたい放題に虚偽の主張を繰り返すことは出来なかった。裁判官もまた、実態を無視して「合意書」と「和解書」を無効にするような判決を下すことは出来なかったはずだ。取材によると、東京地裁の判決が出る直前に鈴木の代理人であった長谷川元弁護士が法廷内で「この裁判は絶対に勝訴する」と大声で断言したというが、何の根拠があってそんな言い方になったのか、文字通りに受け取れば裁判所関係者から事前に何らかの情報をもらっていた事になる。そんなことがあるのだろうか。裁判官はA氏の鈴木への貸付金は、当事者はFRであって鈴木個人ではないと認定したが、FR社当時の常務だった天野氏が鈴木の主張を否定しているのに、何故当事者が鈴木ではないと言えるのか。A氏から融資を受け始めたころからの経緯を調べれば分かることであり、裁判官は鈴木の悪巧みだと見破れなかったことは不思議としか言いようがない。

赤坂の噂
A氏、西、鈴木は、知り合った当初は連れ立って飲食をする場面もあったという。取材によると三人とも長身で、常に高級感がある衣服を纏っていたこともあり、目立つ客だったようだ。A氏は周りを楽しくさせながら気を使って飲むタイプのようで、支払いもほぼA氏が負担していたそうだ。西は自分を大きく見せて、大きな金額の仕事の話をホステスに聞こえるように喋るタイプで、A氏によく窘められていたようだ。鈴木はタイプの女性がいると「バンスは払ってやるから」と言って口説き落とすとすぐ店を退かせて愛人にするタイプだったようだ。口説き落とせたかどうかの成功率は筆者には知る由もないが、店にとってはそれぞれが上客であることは間違いのないところだったという。西は自分が口説きたいタイプの女に会うと、高級な飲み物を一度に数本もオーダーし、高額な料金も平気で払うこともあったという。やはりA氏にそうした行為を注意されると「社長の顔があるから」と言って得意になっていたという。赤坂では数件の店で取材したが、どこへ行ってもA氏の評判は頗る良かったが、西は女性に入れ込んで相当貢いだこともあって赤坂界隈では有名だったこともあったようだ。野暮になるが西が派手に使っていた金も全てA氏から支援を受けている資金の中からと思うと腹が立つが、A氏はそんなことは顔にも出さず笑って一緒に楽しんでいたという。ある時、西の軽口からA氏が莫大な資金を西に貸していることを聞いた店のオーナーママが心配してA氏に忠告したこともあったというが、A氏は笑って聞き流していたと店のスタッフが内緒話として教えてくれた。気に入った女性に赤坂で一番の店をやらせることを内緒にしてA氏から6億円をだまし取ろうとしたことがあり、これは事前にバレて話がなくなったが、気に入った女性にはソウルに8000万円の家をプレゼントしたりするなど、お世話になっている人の金を、いったいどう考えているのか。鈴木よりはましだが、正常ではない。
FRの天野氏も赤坂では名を馳せていた。たまたま一緒の店でA氏と天野氏が出くわした時があった。天野氏は数人の部下と飲んでいたが、わざわざ部下たちを連れてA氏の席に挨拶に来て「今、鈴木が問題なくやっていられるのは、全てA社長から莫大な支援を受けているからだ」と言っていた。とこれもその店の幹部スタッフから聞いた。このような時代もあったのだ。鈴木と西が人間の心を持っていたらと残念でならない。

疑惑 強欲の仕手「鈴木義彦」の本性

第6章 不可解な出来事

人間、生きていく中で好むと好まないにかかわらず、いろんな事件に関わったり遭遇することは避けられないのかもしれない。しかし、鈴木という男の周辺にはあまりにも多くの不可解な事件が発生する。発生するだけでなく鈴木自身が直接関与している可能性が非常に高いのである。これまで書いてきただけでも親和銀行不正融資事件がある。この事件は司直の手で裁かれ、有罪判決を受けているが、その他に伊東市のパチンコ店駐車場で当時A氏の代理人だった利岡に対する殺人未遂教唆事件、香港で西が受けた殺人未遂事件等、枚挙にいとまがないが、取材をした中で何件かをご紹介します。

天野裕氏

FR社で鈴木の側近として動いていた天野氏は、鈴木が親和銀行をめぐる不正融資事件で逮捕された後FRが「なが多」「クロニクル」と社名を変えても一貫して独裁を維持してきたことが大きな要因となったのではないか、平成23年8月3日、都心の京王プラザホテルの客室で、首を吊った状態で遺体が発見された(当時はクロニクル会長)。一部には「何者かが天野氏を吊るした後に足を引っ張った」という恐ろしげな情報もあるが、天野氏の死にはあまりに謎が多いのも事実だ。会社の公式の発表は「8月3日、午前5時、急性心不全により自宅で死亡」としたが、事実は明らかに違っていた。なぜ、このような違いが起きたのか。クロニクルは曲がりなりにもジャスダックに上場する企業だったから、企業としての信用を憚ったのはよく分かるが、余りのギャップの大きさに却って不信感が募ることになった。しかし、クロニクルが具体的なコメントを出すことはなかった。

天野氏は、会社では投資事業を専権事項にして具体的な情報を社内外に開示することは無かったという。鈴木が、親和銀行不正融資事件で逮捕されたことでFR社の代表権を失うととともに株主名簿からも名を消し、さらに平成12年に取締役を退いたことで鈴木とFR社の関係は無くなったと業界には受け取られたが、それはあくまでも表向きの事に過ぎず、天野氏には鈴木の存在を無視することなどできなかった。それ故、なが多や、クロニクルで発表されるユーロ債(CB)の発行や第三者割当増資が、実は全て鈴木の指示の下に実行されていた事実を一部の人に明かすことにしたことがトラブルの一つといわれている。

しかし、天野氏が死亡すると、続々と使途不明金が発覚し、2012年(平成24年)1月、過去の会計処理と有価証券報告書虚偽記載の疑義に関する事実関係の調査をするとして、第三者委員会が立ち上げられた。すると、SEC(証券取引等監視委員会)が、天野氏がシンガポールにファンドを3個組成して合計9億円の資金を流し、ファンドから自身に対して資金を還流して個人的に流用していたとして金融庁に課徴金を課すように勧告していたという情報も表面化した。

問題は「個人的な流用」で、これまでの情報ではファンドの組成から還流が天野氏単独による犯罪行為とみなされた模様だが、天野氏の背後には常に鈴木の存在があったことを考えると、還流資金が一人天野氏の私的流用と断定していいのかどうか疑われているが、鈴木と青田が仕組んだと考える関係者が多い。人間として天野氏の評判は決して悪くないが、鈴木の評判は最悪だった。鈴木が天野氏の背後でFR社に関わってきた事実を社内の人間は少なからず承知していた。そもそも3個のファンドをシンガポールに組成して行う投資事業とは何だったのか? 天野氏はFR社代表取締役という名義(肩書)を利用された可能性は非常に高い。天野氏だけではない、今回の事件では10人以上が事件に巻き込まれ自殺や不審死、さらに数人が行方知れずになっているだけに、鈴木の悪事を許せないと関係者は揃って口にする。第三者委員会が調査して判明した使途不明金は平成20年からとなっていたが、それは、鈴木が平成18年頃から旧アポロインベストメントを軸にしてステラ・グループを組織し、同興紡績ほかいくつもの企業買収を繰り返し、あるいは業務提携を活発化させた時期と重なっていた。

ステラ・グループへの変貌と、企業活動に要した資金を鈴木が調達するにあたって、クロニクル(天野氏)が利用されたと考えると天野氏の自殺はこれまで伝えられてきたものと全く違ってくる。

A氏は天野氏に直接会って確認したいことがあって、天野氏に面談を申し込んだことがあった。天野氏は「鈴木からA社長には会わないように強く言われているが、内緒にしていただけるならお会いします」と言うことなので二人きりで会うことにしたが、西がどうしても同席させてほしいと言うので三人で会ったことがあるが、天野氏は鈴木と西の関係を知っていたので、西を入れることは反対したが、西がどうしてもと言うので一度だけという前提で3人で会った。天野氏は鈴木が親和銀行事件で有罪判決を受け、FR社の社長を退任してから同社のトップとして会社を守ってきた人物である。鈴木の尻ぬぐいも含めて債権者への対応に追われていた。A氏は鈴木が「A社長からの借入は全て返済している。その証拠に預けていた手形も返してもらっている」と言っていることについて天野氏の見解を聞いた。天野氏は「当時、FRには全く金がなく、債権者への返済は出来ていないし、(手形の戻しについては)前年も私は西さん経由で決算時に同様の事をやってもらっていた」と言った。そして、「あの大変な時期に、A社長だけは励ましの言葉をかけて戴き、『もし、どうしても困った時は連絡をしてください』と言ってくれました。そんな人はA社長だけでした。鈴木にも『A社長みたいな人はいない。感謝ししなければいけない』と言ったのを覚えています」と続けた。西は紀井氏が書いた鈴木の株取引の明細を天野氏に見せた。そこには500億円に近い利益金の詳細が書かれていた。天野氏は何かを確かめるような目つきで何度も見つつ、はっきりと「これ位はあります。いやもっとあったと思います」と言い、その後「この金はA社長の金だと鈴木より聞いていました」と言った。西は紀井氏の証言の確証が得られた事を確信した。A氏は、何より側近中の側近である天野氏の証言が鈴木、平林の主張を打ち砕く根拠に違いないと思った。

セレブ夫婦殺人死体遺棄事件

実は天野氏が無くなった2年後の2013年(平成25年)1月下旬に新聞、テレビ、週刊誌で「セレブ夫婦殺人死体遺棄事件」が大きく取り上げられた。同年1月下旬に埼玉県久喜市の空き地で一時帰国していたスイス在住のファンドマネージャ、霜見誠と妻美重夫妻の遺体が土中に埋められているのが発見された。霜見が務めていたファンド(ジャパン・オポチュニティファンド(以下JOFという)のオーナーが鈴木だったと見られており、当時の霜見氏を知る人たちによると、霜見氏が窓口となって運用していた資金が300億円であったという。そして複数の証言を総合すると、鈴木と西が宝林株を手始めとした仕手戦で利益を上げ、その利益を鈴木が独り占めし始めた時期と霜見のファンドの活動が重なるのである。一方、霜見氏が他の投資家に勧める投資商品は、いずれも実態不明の危険なシロモノ(いわゆるハイリスク、ハイリターン)が多かった模様で逮捕された元水産加工会社経営者渡辺剛も億単位の損失を出し、それを恨んで犯行に及んだとされている。渡辺は潜伏先の沖縄で逮捕され、強盗殺人、死体遺棄、詐欺未遂の容疑で起訴された。犯人の証言によると、2012年(平成24年)12月初旬に、日光で福山雅治や槇原敬之等が参加するパーティがあると嘘をつき迎えの車に乗せ、車の中で睡眠薬入りの酒を夫婦に呑ませて眠らせ、ロープで首を絞めて殺害したという。

それにしても自分が勧めた投資話で損失を出した相手の誘いに霜見が簡単に乗ったことに疑問が残る。予め殺害後の遺体を埋める土地を用意しつつ周囲を塀で囲うなど、果たして二人の実行犯だけで出来るだろうか。なにより、損失を出させられた恨みからの犯行と言うには、あまりにも大掛かりな仕掛けを使いすぎていた。

話は戻るが、JOFからクロニクルへ資金を提供するように指示を出したのは鈴木であった。しかし天野氏は当時クロニクルから鈴木を排除しようとしていた時期であり、鈴木も最近の天野氏の言動を疎ましく思っていた。そして消息筋によるとこのJOCはその後、目立った活動もなく、クロニクルへの投資だけで存在を消してしまっている。実際JOF オーナーが鈴木だとすれば、クロニクルの社債を13億5000万円で引き受けたJOFのオーナーの立場を利用し、鈴木本人がクロニクルに入った13億5000万円を運用していたことになる。霜見氏はこのからくりを承知していたはずである。おそらく当時クロニクルの代表者だった天野氏も知っていた可能性が高い。この秘密を知っている天野氏と霜見氏は、鈴木にとっては先々目の上のタンコブとなる重要人物であったという関係者の話も少なくない。その後JOFはクロニクルの新株予約券72個(転換価格1株20円で720万株)を引き受け、さらに、平成24年6月に別の投資家から158個(同じく1580万株)を譲り受けた。クロニクルの株価は平成24年の前半頃は30円台を推移していた。1株20円で権利を行使して普通株に転換し、市場で売却すれば、単純計算で1株あたり10円の利益(2億3000万円)が出ていた。それにもかかわらず行使したのは20個分(200株)だけであった。これには誰の思惑が働いていたのか、それに譲渡を受けた投資家とは誰だったのか。JOFは譲渡を受けたものと合わせて210個(2100万株)を保有していた。クロニクルの株価は平成25年1月15日、14円からいきなり37円に急騰した。当時のクロニクルの経営陣は、「なぜ株価が上がったのか解らなかった。霜見氏が株価を釣り上げているのではないかと思っていた」と言う。しかし、株価が急騰した時には霜見氏は既に殺されていて、この世にはいなかった。今もって誰が株価を釣り上げたか、誰が高値で売り抜けたか、明らかになってはいないが、陰で操っていた人間を想像するのは難しいことではないが、それを解明するためには重要な人物の一人は殺害されており、もう一人人は自殺? しているのである。この二人の証言は聞けない。果たして、取引はタックスヘイブンの投資会社等の名義になっているのだろうが、それを特定する材料は何かあるはずだった。当時の報道によると霜見氏は、中東のドバイでの不動産、株式投資をめぐり、著名な政治家(故人)の長男と某暴力団関係者から民事訴訟を起こされるなどトラブルを抱えていたという。霜見氏もかなり危ない橋を渡っていたことが窺える。そして、この投資話に登場する人物関係者の中にも鈴木の人脈だといわれる人物が浮かび上がってくる。

霜見氏がクロニクルの前身であるFR社と関係を持ったのは、親和銀行事件の頃からだった。霜見氏も親和銀行で不正融資の受け皿になったFR株の仕手戦で稼いだ一人だった。宝林株の相場で大物相場師の西田晴夫との交流が始まり、仕手銘柄でかなり稼いだといわれている。霜見氏自身が当時の同僚に「FR銘柄に出会ったことが私の人生を大きく変えた」と言っていた。またJOFの事情を知る関係者は、親和銀行事件で有罪判決を受け、社長を退いた後、数多くの株取引で莫大な利益を上げていた鈴木の資金運用を霜見氏が担当していたと言うが、その頃鈴木が運用していた資金とは、まさにA氏、西、鈴木の三者が合意書を作成し、宝林の株投資で儲けて鈴木が利益を独り占めしている資金であった。鈴木と霜見氏の関係は平成14年に始まったとされるが、霜見氏がスイスに在住していた関係で、鈴木は宝林株の口座がスイスにもあったと思われる。

ちなみに、クロニクルの有価証券報告書(平成19年12月提出)によると。同社の大株主欄に「エスアイエス・セガ・インターセトルエージー」という外資が名を連ねたが、同社が保有する7,163万株(16%)は「JOFの預託」によると明記され、その記載は平成23年まで続いていた。また同社の保有数は平成21年の75,743,000株をピークにその後は減少し、平成23年になると「エスアイエス」の名義も「エスアイエックス エスアイエスエルティディ」に変わっていた。ただし、「エスアイエス」も「エスアイエックス」も本社所在地はスイスのオルテンで同一だった。

平成19年、アポロインベストメントがステラ・グループに商号を変更して本社所在地を移動させて以降、鈴木の代理人となった青田が毎日のように同社本社に“勤務”している事実が確認されていた。青田が鈴木の代行者として関わっていたとみて間違いないが、注目すべきはその年より数多くの外資が株主に名を連ね、その中に「エスアイエス」も「エスアイエックス」も大株主として登場していることだ。この動きは平成23年まで続いたが、突然のように動きが鈍った。同年は前述した天野氏(クロニクル)が自殺した年であった。このタイミングも一連の動きに関連がないとは言えないのではないか。

また、取材によると鈴木のボディガードとして海外にも同行していた「吉川」という男が霜見氏と懇意の関係にあったという。この吉川は鈴木の後輩で、東京茅場町で「五大」という証券担保金融を営んでいたが、一方では過去に反社会的組織に属していたという噂のある男だった。鈴木がスカウトした元証券マンの紀井氏に指示して株を売り抜ける際の名義はしばらくの間、この「五大」がメインだったという。市場から吸い上げられた利益金は一旦「五大」に入るが、その後、吉川が日本国内で鈴木に現金を渡すか、密かに海外に持ち出す「運び屋」的な役割も担っていた。海外での現金の受け渡しはパリが多かったそうだが、ある時期からSECに関心を持たれるようになり、パリに逃亡した(西の証言記録より)という。吉川は鈴木にとって極めて身近な、そして重要な役割を担っていた人物だったが、その後は行方不明になったという。周囲の証券マンが言うには「吉川が行方不明になる前に鈴木と吉川の関係はあまり良くなかったようで、鈴木はよく愚痴をこぼしていた」と言う。その後、消息を尋ねた先の証券マンに鈴木は「あいつは死んだよ」と素っ気なく答えていたと言う。吉川の不明後、国内での現金の受け渡しは誰が引き継いでいたのか。このように海外、国内を問わず鈴木に関わった、特に悪事に関わった人間は殺人事件や失踪事件に遭遇しているのだ。

大石高裕氏

鈴木の側近であった大石高裕は親和銀行事件で鈴木とともに逮捕され、平成12年9月20日、懲役1年6カ月、執行猶予3年の有罪判決を受けた後、交通事故で死亡した。余りに突然の事だったが、親和銀行事件発覚から逮捕・起訴後の公判が続く中で鈴木と大石氏の関係に亀裂が入ったようで、西が大石の妻に5000万円を渡した事実が西のレポートに綴られている。それによると鈴木から「大石の口封じをしたい」という依頼があり、平成11年11月に貸付と言う名目で実行した。こうした経緯を耳にすると、大石氏が命を落とした交通事故はあまりにもタイミングが良すぎないだろうか。

取材をしていると天野氏、大石氏の例だけではない。鈴木が事件を起こすと何故か鈴木の周囲の人間がいつの間にか自殺や不審な死を遂げる。それは偶然の出来事だとは思えない不思議な思いに駆られる。原因は決まって鈴木が身勝手な約束違反に端を発した金銭トラブルが多い。

また、株取引でタッグを組んだことがあった相場師、西田晴夫は前にも書いたように自らの銀行口座や証券口座も持たないで株取引をするときは全て側近の口座を使い、側近の口座に溜まった「N勘定」と呼ばれる潤沢な資金は誰もその所在と行方を知らないが、鈴木がそれを放置することは考えにくい。SECと国税当局に目を付けられヨーロッパに逃亡中の元秘書の白鳥女史と謀って運用に動いた可能性は大きいと西田氏の元周辺者は語った。

鈴木の株取引の手法は多種多様を極め、恥ずかしながら株取引の知識には無知な筆者には理解に苦しむことが多いが、鈴木の周辺に起った株取引に絡む不審な事件の流れはよく理解できた。これは一重に取材に協力していただいた方々のお陰である。感謝したい。鈴木の周辺の不審な事件はまだまだあるが別の章でも取り上げる。

疑惑 強欲の仕手「鈴木義彦」の本性

第7章 利岡正章襲撃事件

鈴木はA氏に2通の手紙を出した以降、音信不通になった・

鈴木が手紙で青田と平林弁護士を代理人に指名してきて、A氏にも代理人を立てるよう依頼してきた。A氏は知人に紹介された利岡正章を代理人に立てた。

利岡は鈴木の住まいをはっきり突き止め、A氏と相対で協議させなくては問題が解決しないと考え、平林との書面でのやり取りに加えて鈴木の所在確認に奔走した。鈴木は、家族と共に神奈川県内に住民票を登録していたが、実際には事実上の住所不定が永らく続いており、親和銀行事件で逮捕、起訴されて後に保釈された平成10年当時からして裁判所に届け出た住所地は愛人が東京都内に住むマンションだった。宝林株の仕手戦以降、鈴木は金に飽かして自分の身を隠す住居が複数あるに違いないと利岡は考え、そうした情報の収集に努める一方、特に東京都内に住む鈴木の実父の自宅には足しげく通った。そして「何とかA氏との直接の交渉に応じるよう説得したいから鈴木と会わせて欲しい」と2年近くも実父に話し続けたが、鈴木からの連絡はついに来なかった。そうした利岡の動きが続いた平成20年6月11日、伊東市内のパチンコ店の駐車場で広域指定暴力団(習志野一家)の構成員ら暴漢2人に襲撃され、全治3カ月の被害を受けたが、裁判で鈴木の代理人が「襲撃ではなく、偶然に起きた諍い、あるいは事故」と主張した。その後、利岡や関係者の調査で利岡の襲撃は「青田の依頼による」という複数の証言が得られた。利岡襲撃事件の後、青田が20年来昵懇にしてきた習志野一家のNo.2(楠野伸雄)に青田は「(自分とは今まで)一切付き合いはないことにしてくれ」と口止めしたり、同一家の構成員らに車を買ってやったり、海外旅行に連れて行ったりしたという証言も同一家の上部団体の幹部数人よりあった。

襲撃したのは、広域暴力団稲川会に属する習志野一家の構成員と無職の男だったが、静岡県警伊東署に逮捕された実行犯の二人が所属している組織は、鈴木の代理人となっている青田がNO2の立場にある幹部と20年来、昵懇にしてきただけでなく、実は、平林も何の目的かその組織のトップと最低でも2回は面談を重ねていた事実が判明し、利岡は襲撃の依頼者が鈴木と青田ではないかという疑念を深めた。それは同組織の内情を知る稲川会の複数の幹部からも同じことを聞いていたから、利岡はなおさら実感を強めたのだった。事件が起きた翌日、利岡が救急車で担ぎ込まれた病院に実行犯の組織の組長と称する人間が見舞いに訪れ、謝罪をしつつ示談を求めた。利岡は「襲撃を依頼したのが誰かを明らかにしてくれるなら、示談に応じる」と言い、組長が利岡の申し出に応じたことから示談は成立したが、利岡が退院して後に組長に繰り返し催促しても埒が明かず、そうこうしているうちにその組長が別の事件に絡んで逮捕されたために、事件は真相が分からないまま曖昧に終わってしまった。香港で西が殺されかけた事件と言い、利岡襲撃事件と言い、なぜ鈴木にまつわる関係者にこのような血なまぐさい事件が起きるのか。真相は闇となっているが、親和銀行事件以来、鈴木という男の周囲には暴力的な危険が常に漂っている気がしてならない。鈴木の片腕としてFR、その後なが多、クロニクスにおいても経営トップとして働いてきた天野氏さえ、都心のホテル客室で自殺したと囁かれながら、会社側が「自宅で心臓発作により死亡」と公式に発表したために却って不信感が広がった。また、親和銀行事件で鈴木と一緒に逮捕された当時、FRの専務であった大石も有罪判決を受け、その後に交通事故で死亡したが、この交通事故にも疑惑がもたれている。

利岡が襲われてA氏の代理人としては中途半端な状況に置かれたことで、交渉はさらに難航し、平林と青田はいたずらに事態を混乱させるだけであったと思われる。それどころか、平林が利岡を襲撃した暴力団のトップと何の目的で面談したのか大いに疑問が残る話で、平林はその理由を説明する義務があるはずだった。平林も青田も代理人であるのに好き放題のことを言っていて、都合が悪くなると一切回答しない。

鈴木からの2通の手紙

鈴木からのA氏宛の手紙は平成18年11月下旬から12月上旬にかけて郵送されたが、その直前の10月16日にA氏と西、鈴木が「合意書」の存在と有効性の認否に係る協議を重ねた結果、鈴木がA氏と西にそれぞれ25億円を支払うことを約した「和解書」が交わされたという場面があった。協議は数時間を経た中で、鈴木は「合意書」に基づいた株取引を頑なに否定して、当初は、宝林株の取得資金3億円をA氏が出した事さえも否定していたが、鈴木の指示で株の売りを全て任されていた紀井氏が、西の聞き取りに応じて株の売り抜けの現場や利益の総額をはじめ、鈴木が利益の大半を海外に流出させてきた実態等の真相を語っていた真実が明らかになったことで、鈴木は遂に折れる形となり、冒頭に挙げた金額を支払う約束をA氏と西にしたことから、西が予め用意した「和解書」に鈴木とA氏、西がそれぞれ署名指印したのだった。

「和解書」には書かれていなかったが、鈴木はA氏にはさらに2年以内に20億円を支払うと約束して協議は終了した。

鈴木がA氏に宛てた手紙は、この支払約束を留保撤回し、代理人を立てるから、その者たちと交渉してほしいという内容だった。

「先日帰国しましたが、本日再度、出国せざるを得ません。当分の間、帰れません。理由は、国内で問題が生じました(詳細は、青田から聞いて下さい)。帰国前から、青田から多少の情報は得ていたのですが、国内から海外へ切り口を広げるのは本気のようです。誰がやったのかは確認できませんが、私は西しかいないと思っています。(略) こんなことで本当に今回の件が、キッチリ話がつき、終わるのでしょうか?」「紀井もあの日以来逃亡し、私一人でどうしようもありません。(略)私は、社長が西、紀井と共謀しているとは思ってはいませんので、(略)是非、協力、再考してください」。鈴木は、利益の隠匿が国税当局にバレて、問題が生じた。その原因を作ったのは西しかいないと決め付けたうえで、先ずは「和解書の」履行に疑問を投げかけた。そして、三者協議について、

「紀井の卑劣な裏切りに動揺し、3年間に及ぶ西の全てが嘘の作り話を、はっきりさせず、西の罠に嵌り、安易に和解してしまったこと、金額についても、現在自分が、全資産を処分して出来うるギリギリの数字を言ってしまったこと(現在の状況では非常に難しい)、また、紀井が言っている数字は表面上の数字であり、損、経費、裏側の事情が全く分かっていません」としつつ「私しか本当の利益の数字は分かっていません」と断じる。鈴木が三者協議の場で認めたのは、わずかに「合意書」に基づいた株取引は宝林株のみであったが、この冒頭の流れを見ると、鈴木が株取引で上げた利益を不正に海外に流出させていたこと、紀井が証言した利益総額470億円は事実であること(ただしそれは、鈴木に言わせれば粗利益で、純利益ではない)を認めたうえの話になっている。

「私一人で立案して稼いだ金」「私はこの3年間で西と会ったのは、(略)2回きりです。TELも1回。それきりです」「特に今回、私を陥れるため作り上げた香港での殺人事件は考えれば考えるほど、頭にきて眠れません。到底許せることではありません。第三者を入れ、嘘だった、作り話だったと判明させなければ納得がいきません。」「(紀井は)話し合い当日に全ての仕事を放り出して逃亡していますが、私の被害が多方面で非常に大きいということ。また、やり方が非常に卑劣だということ。また、紀井は、国内外の関係者数名に、私が殺人を犯すような人なので、私の所を辞めたと言っています。(略)このような話をされては、私の国内外における仕事の被害も甚大です。許せません。(略)3人が共謀して、私を陥れようとしたのか、疑念を招いてしまいます。」

鈴木は紀井に約束した報酬の1/100も払っていないのに、よく言えると思うほど身勝手な事情を書き連ねている。筆者はこの手紙を見て鈴木が「陥れる」とか「「作り話」「卑劣」「身勝手」「罠に嵌る「疑念を招く」「共謀」等という言葉を使っている事に非常に憤りを覚えている。『お前、そんな言葉を知っていたのか? お前が使うな! お前がいつもお世話なった恩人に対してしていることなんだよ』と教えてやりたい。

手紙の内容を続ける。(抜粋)

①「今回の件も話がほとんど漏れており、どちらにしても、西と紀井がいる限り、秘密保持はできません。なんとか紀井本人を捕まえて、第三者を入れ、キッチリ紀井からほんとうの事情を全て聞きたい」。そして、「合意書」の件になると、②「よく振り返って考えると、何の株を買うとか、どのくらい数量を買うか等、株に関することで、三者で話し合いをしたことが一度もないということ。(西と二人でも一度もない)」また、③私一人で立案し、稼いだ資金を、国内外の移動という、現在もっとも難しいことで、何故、一人だけでやらなければいけないのかということ」、④「合意書」を交わして、A氏に株価の買い支え資金を出させておきながら、一方でA氏を蚊帳の外に置くというように情報遮断を策したのは他ならず、鈴木自身であったこと。以上4点においても自分勝手な言い分で、もっともらしく書いてきている

「私一人で立案して稼いだ金」についても「語りに落ちる」とはこのことで、鈴木は買支え資金は合意書どおりにA氏に出させ、利益を密かに海外に流出させ、タックスヘイブンのプライベートバンクに自分が立案した通り、独り占めして隠匿しているということなのだ。

そして、「私がした約束は、西の脅かしと騙し、紀井の裏切りにより、正常な判断を奪われてしたもので私を拘束するものではない」と主張することに尽きた。しかし、鈴木が正常な判断を奪われたのは、自分が、西を唆して破棄させたと思い込んでいた「合意書」が、破棄されずにA氏が保管していたことが原因である。「合意書」が存在しているということは、今まで鈴木が自分の代理弁護士と謀って嘘の証言を作り上げていることが全てむだになり、全ての悪事が晒されてしまうために正常な判断を奪われてしまったのである。裁判官が間違った判断をしたのは、被告は「心裡留保」の状態であったと判断したことであったが、その本当の原因までを見抜けなかったことだった。これは、重大な裁判官の「誤審」だったのではないか。まさに、鈴木の悪事を暴く絶好の機会だったのである。

そして、鈴木は「今後、すべてが解決するまで、私がこの件で直接話をすることはありませんし、金を払うつもりはありません」と書いてきて、青田と平林弁護士を指名してきた。この二人が代理人となった事がこの事件を混乱させてしまう。

鈴木が狡猾なのは、A氏だけは自分の事を理解していると、A氏に思わせるような流れを作っている事ではないか。それを窺わせていることだ。それは

「私は、海外の資金つくりに最大限、全力投球するつもりです。また、現状それしかできません。(海外口座をつくることは検討しておいてください)何とか私のこの真意をよく理解していただき、世の中の道理に適う形、納得いかない点の解決に協力してもらい、和解金、支払い方法等の再考をお願いします」と1回目の手紙に書いてきている。

A氏は手紙を読み、「この問題は、当事者同士で話し合いをしなければ解決しない(代理人や弁護士が同席するのは構わない)」という趣旨の手紙を平林弁護士経由で鈴木に送った。しかし、鈴木は頑なに代理人を立てることに固執し、自身は姿を現そうとしない。これも鈴木の常套手段に違いない。なお、A氏は鈴木が代理人を何人立てるにしても、鈴木本人が同席しなければ本当のところが分からないから、必ず同席するということを条件にした。

不可解な鈴木の手紙

2通目の手紙でも鈴木のA氏に対する態度は変わらないように見えた。

「根本的に私は、今回の件は以前に社長に言いましたが、合意書とか、和解書とか、そんなものは、関係ないのです。社長には過去大変お世話になり、人物的にも魅力を感じ、男としても一目も二目も置いていました。私にはそう思える人物が過去ほとんどいませんでした。それと100歩譲って西がJASのきっかけを作ったということです。JASの件では、双方に資金を渡しているはずです。西が一人だったら、何と言おうが、何をしようが、びた一文渡しません。社長が居るからやろうという気持ちを維持しているだけです」と書いてきている。そして、相変わらず紀井を悪者にして、

「話し合いの後、西が紀井に話、紀井が私の関係者にTELして、香港の件を含め、今回の件の話をしたことです。海外の資金は自分のものであって、自分のものではありません。関係者には事情を説明して、各方面に対応してもらうしかないのです。当然、関係者は、このような件を独りで対応させるようなことはさせません」と言って「平林先生の力と青田氏がフォローしてくれなければ、完全な形で資金(現金)を受け渡すことは難しいのです。また、私が逃げ隠れするとか、裁判をするとか、話を壊すつもりなら代理人等立てません」と、代理人を立てることの正当性を強調した。だが、鈴木は実際には何年間も逃げ隠れしている。もし、鈴木がこの2通の手紙の文面にあるように、A氏に対しては「和解書」の履行に努力するという意思があったならば、代理人となった青田、平林の両人は本当に交渉する現場を作ったに違いない。しかし、実際には逆だった。

疑惑 強欲の仕手「鈴木義彦」の本性

第8章 裁判の検証 ①

裁判で「合意書」や「和解書」は無効だから原告(A氏)の請求を棄却する、という信じられない判決を出した東京地裁の裁判官の姿勢について考える。裁判官は、「合意書」に基づいて鈴木と西が株取引を実行した痕跡がみられず、平成18年に「和解書」が作成されるまでの7年間に株取引に係る三者の協議が行われたという具体的な証拠も提出されていない、と言って「合意書」の有効性や実行性を否定した。しかし、A氏側から法廷に提出した多くの証拠書類を精査すれば、鈴木が故意に会おうとしないで逃げ回っていたことが分からないはずが無い。それに合意書が有効でなければ、何故、勝手に他人の宝林株800万株を紀井氏の名義にしたり売らせて、利益を茂庭を使って海外口座に移すことができるのか。全くひどい判決としか言えない。

例えば、鈴木が取得した株の売り抜けをほぼすべて任されていた紀井が、各銘柄の株取引で得た利益とその総額を「確認書」という書面にまとめ、さらに鈴木が利益のほとんどを海外に流出させ密かに隠匿している事実を法廷で証言したこと。

次に「合意書」が交わされた直後の平成11年7月30日に西が「株取引の利益」と言って、A氏の会社に15億円を持参したこと。A氏はその15億円を「合意書」に基づいて5億円ずつ分配すると考えたが、西が自分と鈴木の取り分をA氏への借金の返済の一部に充てると言ったことから全額を受け取り、そのうち1億円を心遣いで「鈴木さんと分けなさい」と言って西に渡したこと。

さらにこれに関連して翌7月31日、西と鈴木がA氏の会社を訪ね、15億円の処理を確認したこと。その際、西と鈴木が5000万円ずつを受け取ったことに礼を述べたこと。

平成18年10月16日の和解協議では、鈴木が西に「合意書」の破棄を執拗に迫り、その報酬として10億円を複数回に分けて渡したことを認めたこと、そして、その場で「和解書」が作成されたが、その後の約1週間に鈴木が何度もA氏に連絡を取り、「和解書」で約束した金員の支払を追認するとともに、西が株取引で蒙った損失を「合意書」に基づいて補填しなければいけないと発言していたこと、など挙げればいくつも出てくるのだが、裁判官はそうした事実関係の検証を完全に怠り判決に反映させなかったのである。しかも、和解書を無効とする理由に挙げたのが、鈴木が和解協議の場にありもしない状況を作り上げて「強迫」や「心裡留保」とした主張だったから、あまりにもおかしすぎる話だ。

鈴木は「西が香港で殺されかけたという事件の容疑者にされる、という不安と恐怖感、そして側近の紀井に裏切られたという衝撃から、書面に署名指印してしまった」と主張して、あたかもA氏と西に脅かされたからということを強調した。さらに、A氏の会社はビルの8階にあるが、そのフロアーに上がるエレベーターを止められ、監禁状態に置かれたとか、A氏と反社会的勢力の大物とのツーショットも見せられた、と言い、脅迫を受けたかのごとき主張をした。

しかし、当日の面談は録取されており、A氏や西が鈴木を脅かした事実など無いことは明白で、紀井が鈴木の指示で取得株式を売り抜け、巨額の利益金を確保している事実を突きつけられたため、弁明が通らないと覚悟して、それでも隠匿資金の流出を最小限に食い止めるために、さっさと「和解書」に署名指印したことが推察される。なお、鈴木は「和解書」を2度3度と注意深く読んでおり、「文言に不備があれば修正する」というA氏の言葉にもかかわらず署名指印したのである。

鈴木の主張が嘘だらけであった事実は、これまでに何度も触れてきた。そして、法廷での証言が二転三転すれば、裁判官は不信を抱き証拠として採用しない、というのが通例であるので、裁判官が鈴木の主張、証言を採用することなどあり得ないと考えるのは当然のことだったが、判決を見ると真逆の結果となった。それは、いったい何故なのか? 裁判官が正当な判断能力を行使せずに、何らかの思惑で判決を導くことはあるのか? 今回の裁判で最大、深刻な疑問は、まさにそこにあった。

裁判には鈴木を巡る報道記事が証拠書類として提出されたが、それらの記事に描かれた鈴木の人間性を抜きには「合意書」と「和解書」の真実は明らかにならないというのが趣旨だった。しかし、東京地裁で3人、同高裁で3人の、合わせて6人もの裁判官たちは「合意書」と「和解書」に記された文言を無視して、それぞれの書面に込められたA氏、西、そして鈴木の真実には一切目を向けなかったことに誰もが大きな疑問を感じた。裁判官は、当事者たるそれぞれの人間を無視した上に書面の文言も無視したと言わざるを得ない。

鈴木の虚偽証言の典型的な例が宝林株取得の資金3億円を提供したのが誰だったのか? という点である。

ロレンツィ社が保有していた宝林株800万株の買取りについて、鈴木は「買取りではなく、イスラエルの大株主ロレンツィ社から、800万株を1株20.925円で海外の投資会社のバルサン(ママ。バオサン?)300万株、トップファン250万株、シルバートップ250万株と3社に譲渡された」と主張した。併せて、その購入代金についてもA氏が出したという事実を否認。しかし、西が株式買取りの作業を全面的に行ったことから主張が二転三転した。また、株式の購入資金についても「株式の買取り企業が直接出した」という主張が途中から「自分の金を出した」とすり替わり、さらにその調達先も「ワシントングループ(会長)の河野博昌」からと言い換えられ、全く辻褄が合わなくなっていた。前記の外資3社は鈴木がフュージョン社を介して用意(取得)した、実体のないペーパーカンパニーであり、紀井がその事実を明確に証言している。

また、前記の外資3社が大量保有報告書を金融庁に提出するに当たって「紀井義弘からの借入」という虚偽の記載を行って、常任代理人の杉原正芳弁護士は当の紀井から抗議を受けたが、杉原からの回答は一切無かった。鈴木が志村化工株価操縦事件で西とともに逮捕されていたら、杉原も必然的に取調べを受けたのは間違いなかった。

「合意書」は、A氏、西、そして鈴木が株式の売買、売買代行、仲介斡旋、その他株取引に関することはあらゆる方法で利益を上げる業務を行うことを第1の約定とした。株式の銘柄欄は空白で、ただ「本株」とだけ書かれていたが、それが宝林株であることには疑いがなかった。また、「今後本株以外の一切の株取扱についても、本合意書に基づく責任をそれぞれに負う」ことや「合意書」に違反した行為が判明したときは「利益の取り分はない」と明記して、西と鈴木が継続的に株取引を実行する意思表示がなされた。ところが、株価維持のための資金協力をA氏に仰いだことから巨額の利益が生み出されたにもかかわらず、鈴木と西はA氏を裏切り、利益を折半する密約を交わしてA氏には株取引の情報を伝えなかった。

「合意書」の存在、そして「合意書」に基づいて宝林株の取引が行われたことを鈴木が和解協議で認めていながら、裁判官はそれさえも受け入れず判決にも反映させなかった。それが判決をめぐる最大の違和感を生んでいる。裁判官は、自分の思い込みをただただ判決文にした。それ故、西がA氏の会社に持参した利益の分配金15億円を、事もあろうに鈴木の返済金として扱ったのだ。しかもこの15億円について裁判官は、西が持参した7月30日と手形の原本とともに「確認書」をA氏から預かった9月30日のいずれであるか、「平成11年7月から同年9月までの間」と曖昧にしたまま授受の期日も特定せず、さらに加えれば鈴木自身が「でも、(宝林株の利益は)双方に渡しているじゃないですか」と利益金の一部15億円を分配したと認めているにもかかわらず、何故返済金扱いにしたのか。その根拠が判決ではまったく明らかにされていなかった。誰もが疑問や違和感を持つのは当然だった。

和解書については、紀井が宝林以外の銘柄でもそれぞれ10億円単位の利益を出した事実について、西に説明している録音テープを聞かされたことで、鈴木は最後には宝林株取得の資金はA氏が出したことを認め、宝林株の取引が「合意書」に基づいたものであったことも認めた。最後には「社長には、これまで大変お世話になったので、西の話は受け入れられないが、この問題を解決するために50億円(A氏と西にそれぞれ25億円)を払います」と述べた。

西があらかじめ用意していた「和解書」を鈴木の前に提示すると、鈴木は文言を何度も読み返し、真っ先に自筆で空欄となっていた金額欄に50億円(A氏と西それぞれに25億円)と書き、併せて住所と氏名を書き記し指印した。書面には「最近の経緯から乙(西)丙(鈴木)は本合意書に反したことは明白である」との表記があり、合意書どおりならば2人には利益の取り分は無く、鈴木と西がそれを認めた事実は重い。これを裁判官は無視できなかったはずだが、判決を見る限り一切考慮していない点は批判されて当然である。

また、「和解書」の作成により、一旦は「合意書」に基づいた株取引が行われた事実を認めた鈴木だったが、「和解書」作成後、鈴木は頻繁にA氏に電話を入れ、「和解書」を追認する言動を繰り返した。さらに、同年10月23日にはA氏の会社を訪れ、「和解書」に記した50億円の支払方法等について、より具体的な内容に触れた(当日の録音記録もある)。

前記電話でのA氏との会話の中で、鈴木が「西が株を買い支えするために蒙った損害は70億円と言っているが、正確な数字を知りたい」と尋ね、2~3日後にA氏が58億数千万円と伝えると、鈴木は「その損失額を利益から差し引いて3等分するべきですね」と言った。この発言は、まさに「合意書」に基づく株取引が実行された事実を鈴木自身が認めたものであると同時に、和解協議の場で強迫や心裡留保になるような状況などなかったことの証でもあった。 但し、鈴木はそれから約1か月後にA氏に手紙を送り、和解書に記した支払い約束を留保撤回した。鈴木の翻意はA氏と西には意外に思えた。しかし、その後、鈴木が所在を不明にする中で交渉の代理人となった青田光市と弁護士の平林英昭の対応を見る限り、鈴木からの報酬目当てとしか思えないほど事態を混乱させたのは他ならぬこの二人だった。

青田は「鈴木はA氏と西氏に脅かされて怖くなり、和解書に署名しなければ、その場を切り抜けることができなかった」と言い出した。しかし、青田は三者の話し合いには一度も立ち会っておらず、その場の雰囲気すら分かっていなかった。平林も鈴木の債務額を4回も言い換えるなど支離滅裂で、おそらくは鈴木が背後でA氏への支払額を限りなくゼロにする指示を出していたに違いない。また平林は利岡襲撃事件に関連して稲川会習志野一家のトップ(木川孝始)と少なくとも2回以上会うなどして事件の隠蔽工作を謀り、弁護士の倫理観のかけらもない対応を繰り返した。暴力団のトップとの面談が公然化したら、平林は懲戒では済まされないということを分かっているのか。鈴木が用意したダミー会社の代理人に就いていた杉原正芳弁護士も同じである。今後、鈴木と青田は猛省するタイミングが近づいていることに早く気づくべきだ、と指摘する声が増している。

裁判官は、鈴木の債務についてもいかがわしい判決を出した。それは、鈴木がA氏の所に持ち込み、A氏が言い値の3億円で買って上げたピンクダイヤと絵画を「売らせてほしい」と言って販売預託しながら、販売代金の支払いもなければ現品の返却もしなかったことに加え、高級時計13本についても同じく販売預託をしながら、鈴木は知人の資産家に担保に3セット(6本)を持ち込んで6億円を借り受けたうえ、その後に担保を変換して一部の時計を質入れして5000万円を借り出した結果、これらの代金を支払わず現品の返却もしなかった詐欺横領も同然の行為だった。

A氏は止むを得ず準消費貸借契約に切り替えたが、鈴木は、平成9年10月15日にエフアールを債務者としてA氏が3億円を貸し付けた際の借用書と合致させて「3億円は借りておらず、ピンクダイヤモンドと絵画の代金3億円の借用書を書いた」と主張した。期日を確認すれば明らかな通り、3億円の貸付は平成9年10月15日で、ピンクダイヤモンドの持ち出しよりも7ヶ月も前のことだった。さらに平成10年5月28日付の「念書」まで書いているのだから、支離滅裂としか言えない(しかも、鈴木は絵画を一度も持参しなかった)。鈴木は念書について「私から手形を受け取っているにもかかわらず、当時のエフアールの常務の天野に絵画やダイヤの念書を連名で書かせろ、とA氏が念書を要求した」と主張した。しかし、A氏は金融業の免許は所持しているが、本業としているわけではなく、鈴木が予め念書を用意して持参したので預かったまでのことであった。普通の人間では言えないような鈴木の度の過ぎた嘘が余りに多いことに、関係者の多くも驚きを隠せない。どれだけ嘘をついてもバレなければ良いと、長谷川と2人で死人に口なしとばかりに西や天野氏を引き合いに出した作り話を並べ立てて、この2人は人間ではない。

ところが、鈴木の嘘よりももっと支離滅裂だったのが裁判官の判決だった。裁判官は「ピンクダイヤや絵画の販売預託は念書にある通りエフアールであって、鈴木個人ではない」としたり、「上代価格が45億円の時計を4億円で販売委託するのは経済的合理性にそぐわない」として、鈴木が約束した総額7億4000万円の支払債務を認めなかった。それに、A氏が貸し付けをしたり物品を言い値で買って上げたのは、あくまで鈴木個人を助けるためであったうえに、ピンクダイヤ持ち出しの際の念書や高級時計3セット(6本)で知人より6億円を借り受けた事実を裁判官はどうやって説明できると言うのか。このことは絵画でも分かるが、困っているからといって現物を見ないで買う人はまずいないはずだ。これも人助けのためとどうして分からないのか。超高額の時計の販売は足が遅く、業者間での取引や決算対策等では一つの手段として有り得ることで、裁判官が単に「世間知らず」というよりも、何としても被告(鈴木)を勝訴に導きたいと考え揚げ句に矛盾だらけになっていることにどうして気づかないのか。本当に不思議でならない。大きな裏があるとしか考えられない。そのために7億円超の債権が認められず、鈴木の悪意が見逃されるのは本末転倒ではないか。なお、裁判官は、前記の3億円の借用書についても「借主はエフアールで、鈴木個人ではない」と言って、鈴木の債務として認めなかったが、これも前述しているように主債務者と連帯保証人が間違っていたので、鈴木が「書き直す」と言ったが、「(A氏と西、鈴木の)3人が分かっているから、このままでいいですよ」とA氏が言い、そのまま手続したことで問題があるはずがなかった。そもそも平成9年8月に西の紹介で鈴木にあって以降、A氏が資金繰りに惜しみなく協力したのは鈴木個人のためであって、エフアールが相手ではなかった。鈴木が手形を担保に約17億円の融資を受けるに当たっても、西が「お願い」と題する書面をA氏に差し入れ、「手形は鈴木個人のことであるので、金融機関には回さないでください」と横着な依頼をしているくらいだった。A氏にとっては債権の回収が覚束ない危険性があったにもかかわらず、西(鈴木)の要請に応じた。もし相手がエフアールであったら、応じなかったに違いない。

A氏が鈴木の資金繰りに協力して以降、常に存在していた回収不能の危険性は思わぬ形で現れた。平成11年9月30日付で、「エフアールの決算対策のために手形原本を預かりたい」という鈴木の要請を受けて、A氏は了解した。鈴木がA氏に預けた手形は、事実上の融通手形で簿外であったから、決算対策上は処理しておかねばならず、前年の平成10年9月にもA氏は手形の原本を西経由で天野に渡して、監査法人の監査終了後に問題なく戻ってきたため、同様に協力したものだった。しかし、この時は西がエフアールと額と同額の借用書とともに「手形原本の預けと『確認書』交付はエフアールの決算対策のために鈴木の要請によるもので、債務は返済されていない」旨を記した「確認書」を当日、先に作成してA氏に差し入れた。それ故、A氏も了解して「エフアールと鈴木義彦氏に対する債権債務はない」とする「確認書」を便宜的に作成して西に預けた。西は手形原本と確認書を鈴木に渡す際にA氏に電話を入れたが、その際に鈴木が電話を代わり、「本当に無理なお願いをして、有難うございました」とA氏に礼を述べたのである。

ところが、鈴木はこの「確認書」を盾にして「平成11年9月30日に15億円を支払い債務を完済した」と主張したのだ。鈴木の言う15億円は西が同年の7月30日に持参した15億円を指していたが、9月30日に金銭の授受は前述したとおりなかった。手形の原本は確かに鈴木の手許に戻ったが、借用書や預かり書など全ての原本はそのままA氏の手許にあり、「確認書」が債務完済の根拠になどならないのは明白だった。また、貸付金約28億円は元本であったから、15億円では完済とならない。エフアールの常務(後に代表者)だった天野裕は、「前年の平成10年9月にも決算対策のために西さん経由で手形を預けて戴き、監査終了後に再びA氏に返した。お陰で取締役会で議題にもならなかった。従って平成11年当時の確認書も便宜上のものと認識している」と鈴木の主張を完全に否定した。

鈴木が裁判で提出した物的証拠はこの確認書だけだったが、この確認書が便宜的に作成されたことを裏付けるものとして、鈴木が平成14年6月27日付でA氏に対して作成した「借用書」がある。「債務は完済した」と言っている鈴木が3年後に新たな「借用書」を作成しているのは大きな矛盾だった。

この「借用書」は、その4ヶ月ほど前に西が志村化工株の相場操縦容疑で東京地検特捜部に逮捕された後に保釈となり、A氏と西の間で鈴木の債務処理について話し合いが持たれたことから「借用書」の作成となったのだが、その際、西が「今後、株取引の利益が大きく出るので、鈴木の債務を圧縮していただけませんか」とA氏に依頼した。鈴木が負う債務は、その時点で返済が一切無く、元本約28億円に対する金利(年15%)が4年分加算され40億円を超える金額になっていたが、A氏は西の依頼に応じて鈴木の債務を25億円とした。

ところが、鈴木が6月27日当日に「社長への返済金10億円を西さんに渡した」と唐突に言い出し、西がそれを認めたことから鈴木の債務はさらに減額され15億円となった。しかし、鈴木が「社長への返済金」と言った10億円は、平成11年7月8日付けで作成された「合意書」の存在をひどく疎ましく思った鈴木が、西に破棄させようとして何度も要請し、西がそれに応じたかのような対応をしたために、その“報酬”として複数回にわたって紀井が西の運転手の花館に渡していたものだった事実が後日判明したのである。

A氏は鈴木に対し「私に対する返済金であれば、なぜ直接来て話をしなったのか。もしそれができないときでも、なぜ『西に社長への返済金の一部として渡した』ということを、最低電話ででも何故言わなかったのか」と言うと、鈴木は「済みませんでした」と言って謝罪してしばらく俯いたままだった。平成18年10月16日の三者協議の折に、西が鈴木に「これくらいは認めろ」と言うと、鈴木も渋々認めたではないか。

鈴木が平成11年9月30日付の「確認書」を悪用して「債務は完済されている」という主張を交渉や裁判の場で展開したが、この「借用書」によってその主張が虚偽であることが明らかになった。鈴木は、しかし裁判では「西に社長への返済金の一部として10億円を渡した、とは言っていない」とか「6月27日にA氏と西には会っていない」などと証言したが、鈴木と西の借用書には確定日付があった。

裁判官は、こうした鈴木の嘘だらけの主張や証言を、さすがに丸呑みはしなかったが、判決では虚偽であると言及もしなかっただけでなく、西が持参した15億円をA氏への返済金としてしまったのである。また、前述した15億円の借用書の処理で、鈴木が「年内に返済しますので、10億円にしてください」と頼んだことから、A氏は了解したが、鈴木は平成14年12月24日に紀井を伴って10億円をA氏の会社に持参した。それにより、A氏は一旦はそれを鈴木の債務の返済金に充てたが、総額40億円超の債権が結果的に10億円にするためには、株取引の利益分配が実行されて初めて認められるというのが前提にあった。鈴木が利益を独り占めして隠匿している限り、10億円を返済金扱いにすることはできないから、A氏はその後、10億円を株取引の分配金の一部とした。ところが、これについても裁判官は合意書と和解書を無効とした経緯から、鈴木によるA氏への返済金という扱いにして、鈴木の債務は完済されたという判決を出したのだ。あまりに強引で無理やりな認定だった。

疑惑 強欲の仕手「鈴木義彦」の本性

第9章 裁判の検証 ②

裁判官は法廷で判決を下すが、その認定に誤りがあったとしても責任を取ることはない。それは何故なのか? 刑事事件の訴訟で有罪判決を受けた被告がその後無罪となったときに、有罪の判決を下した裁判官が罰せられることも無ければ、当事者に謝罪することも無い。部分的にでも法律を改正すべきだという意見は以前より多くあり、裁判官個人の評価の対象にはするべきだという意見は多い。

人は間違ったことをして他人に害を及ぼせば謝罪し、何らかの賠償責任を負うのは社会のルール、基本原則であるはずだ。今回の事件についてみると、裁判官には度が過ぎる認定の誤りが多すぎる。それが故意ではないかと疑いの目を向ける指摘が多くなっている。裁判官も人間だから一定の範囲のミスは仕方がないにしても、地裁、高裁の裁判官6人全員が同じミスを犯すことは有り得ない。それ故に故意や裏取引の可能性について、多くの人が疑いの目を向けている。

鈴木義彦の悪事、それも結果として裁判所を騙したことになる悪事をさまざまな形で取り上げてきたが、不可解なことに鈴木本人も長谷川も沈黙を貫いたままでいる。ならば、鈴木が実害を被らせたA氏をはじめ関係者に一言でも謝罪しているかと言えば、それもなく、何一つ抗議も釈明も無いことが人として不可解なのだ。

「そもそも西との出会いが無ければ、鈴木はエフアールもろとも破たんするしかなかった。その西を裏切って自殺に追い込んだり、さらにA氏に対しても恩義を忘れたかのような対応を繰り返して来たのだから、鈴木には謝罪という発想はない」と関係者は言うが、そうだとしてもあまりに度が過ぎる。問題となった「和解書」作成後に鈴木は豹変したが、鈴木から送られた手紙の文面からも十分理解できるように、「(社長には)大変世話になった」とか「男として一目も二目も置く」等と書いた人間が鈴木と同一とは思えないが、そうであれば、鈴木を豹変させた理由は鈴木自身の強欲以外には考えにくい。

以下に挙げる事例は全て事実であり、鈴木がその場その場をやり過ごすために言いつくろった虚偽の証言が多く確認されている。

(1)鈴木が平成10年5月31日に親和銀行不正融資(商法違反)事件で逮捕される直前の半年ほどの間で、西がA氏からの約28億円(詐欺横領に係る分を含む)という巨額の融資を仲介して保証人となり、鈴木の窮地を救った関係にあった。そして、鈴木が弁護士費用や生活費等を名目に借り入れを依頼した際に西の妻が1800万円を貸し、また、これとは別に西個人でも鈴木の愛人宅に毎月50万円~60万円を届けるような支援をした経緯があった。さらに西が鈴木に頼まれ、会社で鈴木の父徳太郎を雇用して60万円の給与を支払っていた。そうした事実を無視して西を足蹴にする言動を平気でする鈴木は決して許されるものではない。

(2)10日で1割以上の金利を伴う借り入れでも資金繰りが追いつかず、自己破産はもちろん、自殺という選択肢すら鈴木の脳裏に浮かんでいたような状況を救ったのはA氏であり、またA氏以外にはいなかった。A氏は鈴木からの返済が一切なかったにも拘らず、逮捕直前にも8000万円を貸しているが、そんな人間は他にはおらず、それはA氏、鈴木周辺の関係者全員が認めていることで、鈴木も分かっているはずである。

(3)鈴木は手形以外にいくつも物品を持ち込み、A氏はそのたびに言い値で買ってあげていた。ピンクダイヤモンドとボナールの絵画も言い値の3億円でA氏に買ってもらっていた。但し絵画は一度も持参しなかった(他の債権者の担保に入っていたことが後日判明)。関係者によると、「鈴木は後日トラブルになることを想定して、証拠の残らない方法でA氏から融資を受けていた。帳簿に記載したり銀行口座を介して金を動かしていれば、もっと早い時期に鈴木の嘘は発覚していた」

(4)西と鈴木は平成11年5月末から開始した仕手戦で一攫千金を狙い、株価を高値誘導、維持するために、A氏に資金支援を頼み協力を仰ぎながら、その際に交わした「合意書」(平成11年7月8日作成)の全てを反故にして騙し、A氏に207億円という巨額の損失を負わせ鈴木は利益を独り占めにした。この「合意書」は銘柄欄が空白で、ただ「本株」とだけ書かれていたが、「本株」が宝林株式であることに疑いはない。また「今後本株以外の一切の株取扱についても、本合意書に基づく責任をそれぞれに負う」と明記しており、西と鈴木が継続的に株取引を実行する意思表示がなされていた。

平成11年7月30日、西が「株取引の利益」と言って15億円をA氏の会社に持参した。A氏は「合意書」に基づいて3等分するものと考えたが、西が「私と鈴木の取り分は返済金の一部に充てる」という約束通り、A氏は全額を受け取った。が、そのうち1億円を心遣いとして「鈴木さんと分けなさい」と言って渡した。翌7月31日、鈴木と西がA氏の会社を訪ねた際、A氏が利益金の処理を確認したところ、二人とも了解し、A氏から5000万円ずつを受け取ったことに礼を述べた。

(5)ところが、実際に鈴木は西と組んで仕掛けた仕手戦で巨額の利益を出しながら、A氏には全うな報告もせず、西を窓口にして「都内のマンションの1DKで頑張っているから長い目で見て欲しい」などといった言い訳ばかりをA氏の耳に入れさせていた。西と鈴木の仕手戦の最初の銘柄は「宝林」で、同株の利益約160億円は次に仕掛ける銘柄の“仕込み”に使う一方で相当額を鈴木は密かに海外に流出させていた。

(6)鈴木は周到な計画を立て、海外に流出させた利益金の詳細を西にも詳しく語らず、独り占めを図った。そして、平成14年2月27日に志村化工株の取引で、東京地検特捜部が西ほかを相場操縦の容疑で逮捕するや、鈴木は西と距離を置くようになった。特捜部は事件の本命を鈴木と睨んでいた。しかし、「逮捕直前に鈴木が土下座をして、『私の名前は絶対に出さないで欲しい。そうしてくれたら、西会長が出た後には言うことは何でも聞くから』と懇願した」と西は後に証言したが、取調べで西が鈴木の関与を否認したために逮捕が見送られたと思われる。西の保釈後、鈴木は掌を返すように西との距離を置き始めた。このことだけでも鈴木の人間性が分かるのではないか。

(7)なお、平成11年9月30日付でA氏はエフアールに対して「債権債務はない」とする「確認書」を交付した。鈴木はA氏から融資を受ける際に手形か借用書を預けていたが、決算対策上は処理しておかねばならず、前年の平成10年9月にA氏は手形の原本を西経由で天野に渡して、監査法人の監査終了後に問題なく戻ってきたため、同様に協力したものだった。「確認書」は、この時に西から頼まれ便宜的に作成したに過ぎなかった。

(8)西が保釈された直後の平成14年6月、A氏が貸金と株の話をしたところ、「株取引の利益がこれから大きくなるので(債務を)圧縮して欲しい」と西がA氏に話したため、A氏は了解し、鈴木への40億円超(金利年15%を含む)の貸付金を25億円に減額したうえで、同月27日に新たに借用書を作成した。その際、鈴木が「社長への返済金10億円を直近で西に渡している」と言い出したため、A氏が西に確認したところ、西が金の受け取りを渋々認めたため、鈴木が15億円、西が10億円の借用書を作成し署名した。この二人の借用書には確定日付(6月27日付け)がある。

(9)しかし、西が受け取った10億円は、実はA氏への返済金ではなく、鈴木が「合意書」の破棄を西に執拗に迫り、それを西に実行させるための「報酬」として複数回にわたり紀井から西の運転手である花館を経由して手交されたものであったことが後日判明した。平成18年10月16日に話し合いが持たれた際に、西に「これくらいは認めろ」と言われ、鈴木もこのことについては認めていた。

(10)なお、鈴木は西との仕手戦で獲得した利益の中から親和銀行に対して損害補填による示談を申し入れ、約17億円を支払うことで示談を成立させた(平成12年1月19日付け)。もし損害補填がなければ、鈴木は執行猶予とならず実刑だったに違いないが、「合意書」に基づけば、鈴木は横領を働いたことになる。エフアールや鈴木個人の借金(負債)の清算に充てるという、こうした例は他にタカラブネ株の返還訴訟で山内興産に4億円以上を支払って和解した事実もある。

鈴木は裁判に勝訴したのではない。担当した裁判官が鈴木に騙され、あるいは故意に騙された振りをして、原告側の主張を退けただけである。その結果、何が起きているか、といえば、鈴木の犯罪が今も見過ごしにされているということである。裁判官は自ら認定を誤ったことで、1000億円を超える課税対象について日本国が被害を被るという深刻な事態を招いている責任を重く受け止めなければならない。鈴木の場合は弁護士に対して金の力で思い通りにさせているほかに10人前後の人間が自殺や不審死、行方不明という事態が起きているのだから、よほど深刻ではないのか。鈴木が西義輝や西田晴夫とともに実行した株取引で犯した犯罪は、西義輝が相場操縦の容疑で東京地検に逮捕、起訴され有罪判決を受け、鈴木は巧妙に逃げおおせたことで区切りがついたと思われるかもしれないが、株取引で得た利益が海外で隠匿されている限り、鈴木の犯罪は今も継続している。裁判官の最大の過ちは、鈴木の犯罪を解明する機会を見逃した点にある。

法廷で、鈴木の主張はことごとく破綻していた。エフアールと鈴木個人の使い分けで責任逃れをしたこと、「合意書」に基づいた株取引を頑なに否定しながらも最後には宝林株の取引で「合意書」の有効性を認めたこと、したがって「和解書」でA氏と西にそれぞれ25億円を支払い、さらにA氏には別に2年以内に20億円を支払うと約束しながら、法廷では強迫や心理留保などというありもしない理由を並べ立てて否定したこと(平林弁護士は、A氏と初対面の際に「社長さん、50億円で何とか手を打って頂けませんか? 50億円なら、鈴木もすぐに支払うと言っているんで……」と言ったが、鈴木がA氏と西に強迫され心裡留保の状況にあったなら、交渉に立った平林がそのような言葉を口にするはずはなかった。それ故に「強迫」だの「心裡留保」など有り得ない)、鈴木は外資系投資会社のコンサルタントをして生計を立てていると法廷で豪語したが、その外資系投資会社こそ鈴木が用意したダミー会社であり、実体などなかったこと等、それらの主張の破綻を裁判官はなぜか全て見逃して、A氏側の主張を退けたのである。裁判官が鈴木の主張の破綻の一つにでも注目して検証作業を進めていれば、鈴木の嘘は芋づる式に解明されていたから、すくなくともA氏の主張がほぼ全面的に退けられるような判決にはならなかった。

和解協議後の11月末に「50億円の支払を一旦留保する」旨の手紙を鈴木はA氏に送った。A氏は翻意を促す手紙を書いたが、内容がほとんど同じ手紙が再び届き、以降、鈴木は所在を不明にし、弁護士の平林英昭と青田光市が「代理人」として窓口に立った。途中で代理人を立てるくらいなら、何故、最初から弁護士を入れなかったのかという疑問があるが、青田と平林の両人は、問題を解決するどころか逆に紛糾させるだけだった。青田は「鈴木はA氏と西に脅かされて怖くなり、和解書に署名しなければ、その場を切り抜けることができなかった」と言い出し、また平林は鈴木の債務総額について、交渉のたびにコロコロと変わるほど主張を変転させた。さらに「和解書」についても青田と同様に「強迫」とか「心裡留保」というありもしない状況を根拠に無効を主張した。

しかも、青田は三者の話し合いには一度も立ち会っておらず、その場の雰囲気すら分かっていないのに、「エレベーターを止められ監禁状態に置かれた」とか「ビルの下で待機していた」、あるいは西が香港で事件に巻き込まれたことについても「西は香港へは行っていない」など、都合によって口からでまかせの発言をする人物という評価が関係者全員の一致した印象だった。しかも「和解書」の作成後に鈴木からA氏に送られた2通の手紙には強迫や心裡留保に当たる文言は一切なく、支払の撤回は西と紀井の情報漏えいを理由にしていた。したがって、平林弁護士が鈴木の依頼に応え苦肉の策で作り出した強迫や心裡留保は後付けに過ぎなかった。

「合意書」に基づいた鈴木と西による株取引は、平成11年7月から平成18年10月までの間に宝林株に始まり、エフアール、アイビーダイワ、昭和ゴム、ヒラボウ、住倉工業など判明している分で11銘柄に加え、銘柄を明らかにしていない分が20銘柄あったとした上で、鈴木が得た純利益は「合計約470億5000万円であることに相違ありません」と、取得株式の売り抜けを任されていた紀井が証言していた。

ところが、裁判官は「そもそも、紀井は、被告の指示に基づいて株式を売り、売買代金を保管するという立場に過ぎず、株取扱に必要な資金を誰から取得し、どのようなスキームでこれを運用し、株取扱により得た利益を誰にどのように分配すべきかといった、株取扱による利殖活動の全体像を把握できる立場にはなかった」と断じて、紀井の存在を軽んじただけでなく証言や陳述を当然のように退けたのであるが、真実を全く理解していなかった。紀井がいればこそ、株取引の利益が獲実になったのであり、それ故に紀井がもたらした利益が合意書の有効性を示す証ではないか。紀井氏の株の売りは、金額については一切鈴木の指示はなかったから鈴木よりも紀井氏の方が詳しかった。

鈴木と西が仕掛けた株取引で、鈴木は徹底して自分の存在を消しにかかった。自らの名前を表に出さず、ユーロ円建転換社債(CB)や第三者割当増資による株式の取得はペーパーカンパニーの外資名義で行い、市場で西が株価を高値誘導すると、タイミングを捉えた紀井が投資会社や証券担保金融業者を経由させて売り抜ける。これら一連の取引に鈴木は名前を出さないだけでなく直接介在することもなかった。それ故、西が志村化工株の相場操縦容疑で逮捕された時にも、西や武内が鈴木の関与を白状しなかったために鈴木は逮捕を免れた。

そうした“密室”のような状態の中で、限られた人間によって株取引が行われた実態を裁判官は何ら検証せず、「合意書」と「和解書」は無効という“結論ありき”を導くために障害となる証言はことごとく排除したのではないか、という疑いを強く持たざるを得ない。

西が書いたレポートによると、「常々、鈴木は私に対して『周りの人間たちには鈴木は国内にはいないと言って欲しい。名前を表に出さないで欲しい。エフアール社を絡めた部分で300億円の個人保証をしているので、表に出るわけにはいかない。また、ユーロ債の新株発行に関しては私が表に出て行えば利益を稼ぐことが難しくなるので』と、さまざまな機会で何度も言っていた。私は、その時鈴木が周囲の人たちから逃げようとしているということを察知した」とあるが、西が鈴木に言わされていたセリフは、A氏が西に鈴木の消息を尋ねた際にも使われていて、A氏を煙に巻いていたのである。

裁判官が合意書と和解書を無効にするに当たって、強迫や心裡留保を採用した大きな要因になったとみられるのが、長谷川が質問し鈴木が答えるという問答形式で書面化された乙第59号証「質問と回答書」である。そこでは、鈴木がA氏に対する債務の二重返済を強要されたとか、あるいは「和解書」への署名指印が強迫に基づいたものであることを裏付けるためにA氏が反社会勢力と密接な関係にあり、暴力団関係者を背後の金主元にした貸金業者であるなどという有りもしない作り話を構築した。それは明らかにA氏の名誉を傷つけ、社会的信用を著しく貶めるもので、裁判官に強く印象付けることによって鈴木に有利な判決を勝ち取ろうとしたもので、これ以上の卑劣で悪質なやり方はないものとさえ思われる。

長谷川が、鈴木がウソにウソを重ねて証言していることを知らなかったとは言わせない。何故なら、審理を重ねる中で鈴木の証言や陳述が二転三転して、どれが本当の話なのか鈴木でさえ分からなくなっていたのではないかと思われるからだ。その結果、長谷川は鈴木の証言を丸呑みした上でさらにウソを増幅させる必要に迫られた。訴訟に勝つためである。

平成11年9月30日付の「確認書」でA氏に対する債務は「完済された」と鈴木はウソを吐いた。鈴木が「買ってほしい」と言って持ち込んできたピンクダイヤと絵画をA氏は言い値の3億円で、また価値のない宝飾品を1億2550万円で買ってあげたが、ピンクダイヤと絵画については間もなくして「売らせてほしい」という鈴木の要望にもA氏は応えて販売預託にした経緯を鈴木は無視して、その7か月も前に3億円を貸し付けた際に作成された借用書がピンクダイヤと絵画の買受代金に当たるものだとウソを吐いた。また、「合意書」を交わすことになる重要な銘柄となった宝林株800万株の取得代金3億円をA氏が出した事実を否定するために、鈴木は「自己資金は必要なかった」とか「自己資金で賄った」などとウソを二転三転させた。これらのウソは鈴木が吐いたウソの一部ではあるが、すぐにも辻褄が合わなくなるものばかりで、こうした鈴木によるウソの証言や陳述を長谷川はつぶさに見てきた。そして長谷川が生み出した奇手が、辻褄が合わなくなった部分を修正するためだけではなく、A氏を最大限に誹謗中傷することによって鈴木のウソを糊塗しようとしたことであり、それが乙59号証「質問と回答書」だったのである。

西が書いた「鈴木義彦氏との出会いから現在まで」というレポートには、鈴木が詐欺の常習行為を繰り返してきたことを疑う例がいくつも記されている。

「輸入時計の購入資金として偽の輸入インボイスを作成させ、日本橋の金融業者(宮崎氏)より総額20億円の借入れを行い焦げ付かせた」「古屋貴石社長(古屋氏)を利用し、他社より3~4億円を借入れさせ、エフアール社に貸し付けさせる。古屋氏に対する一部担保としては、エフアール社の第三者割当増資で発行した株券(一定期間売却不可能な株券)及び手形割引等があった」「ノモスの佐藤新一との間では、ブルー、ピンク、レッドダイヤモンドを担保として3億円、かつ手形割引(融手含む)を担保として1億円、第三者割当増資で発行した株券により2億円前後の借入れを行った」「その他、他の業者からの借入れとしては、町金融のアイチより6000万円、その他、他社より手形割引を含め3億円の借入れを行っている」

西もまた、知人の在日パチンコ店経営者から通算20億円、1回につき1~3億円を10日で1割の金利を払って借り入れていたというが、こうした借財の清算をA氏がしてやったことになる。これだけ複数の債権者がいれば、いずれ破産の申立を受け、あるいは詐欺で告訴されていたのは簡単に予測できる。また、そうなれば、鈴木が資金繰りのために簿外で手形を乱発していた事実が表面化して、エフアール自体も倒産していた。

「(鈴木が)多方面で多用している手形割引は、鈴木が直接行わず、仲介として金融ブローカーや悪友の青田光市を使い、商業手形に見せかけて資金の調達をして」いたからだった。

平成9年から同10年当時、鈴木(エフアール)が資金繰りに窮し10日で1割以上の金利でも借金できずに経営破たんして上場廃止となる可能性は高く、鈴木自身も親和銀行事件で逮捕、起訴されるという事態が起きたために自己破産あるいは自殺の選択肢しか残されていなかった。それを救ったのが西でありA氏であったが、鈴木がそのことに何の恩義も感じていなかったとすれば、もはや究極の“人非人”の類でしかない。

人が窮地に陥っているのを見過ごしにはできないというA氏の性格、情愛を鈴木は見抜いて、それを逆手に取った典型的な例がいくつも見られるが、鈴木には利用できる者を徹底的に利用し、用済みとなれば平然と切り捨てる性格が際立っていたのである。

疑惑 強欲の仕手「鈴木義彦」の本性

第10章 悪事の終結に向けて

第4章でも触れたように西義輝が自殺したのは、2010年2月のことだった。正確な日付は不明だが、関係者に最後に郵送された手紙の消印を見ると2月9日だったことから、その直後と思われるが、「遺書」の性格を持つ書面は、西が崇拝して止まなかった「社長」(A氏)を始め、鈴木義彦、青田光市、茂庭進のほかに鈴木の実父徳太郎にも宛てていたようである。西が自殺した後に、会社のデスクマットの下にあった大量の文書(コピー)を発見して分かった。

鈴木宛の書面は18枚からの長文で、鈴木が逮捕された親和銀行事件の、今まで語られていなかった“秘話”に始まり、株取引のきっかけとなった宝林株の取得や、鈴木による利益金の支配に西が抵抗できなかったこと、金銭欲に憑りつかれた鈴木の人間性等を生々しく描いている。

鈴木は「タカラブネ株20億円を担保に新規に60億円分のタカラブネ株を購入できる」と言って山内興産の末吉にウソの情報を流し、末吉が保有していた20億円分の株券を預かることに成功したが、実際にはタカラブネ株を売却してしまい、資金を使い果たした後に西に「FR社の第三者割当増資をやるので、かならず返済をするから」と言って、西にとっては「一番大事な金主であり、いつも弟のように大事にしていただいていた社長を紹介する」ことになった。鈴木は、西のバックに資金力のある人物がいることを日ごろからの会話で聞き知っていて、計画的に紹介させた。それが、そもそも西がA氏に鈴木を紹介するきっかけとなった。

「貴殿は借りるお金について、私の保証が入っている事を分かった上で行っている。私と社長の性格をよく理解した上での、このようなやり方には、貴殿の狡る賢しこさの一部がよく分かるが、私は今になってはそれを解決する方法がないため、非常に残念に思う」

「平成10年5月末より(略)貴殿は逮捕される日まで周囲を騙してきた。出頭する1時間前に私の家内に電話をし、金銭的な協力や後の事を西会長によろしく頼むことを伝え、私にその後、電話をし、弁護士に対する着手金の支払い1000万円やFR社に来る債権者に対する対応などを頼んできた。(略)貴殿の愛人で子供もいるサラ女氏(史)の三田のマンションにいた時も、毎月、生活費として50~60万円を届けながら、私が必ず大きな仕事をする用意を考えているから頑張っていこうと励ました日々だったと思う。後に分かったことだが、貴殿は逮捕前にサラ女史に3000万円のお金を預けていたと聞いて、私は自分の馬鹿さ加減に呆れてしまった」

西は鈴木のことを「どんな時でも、自分が弱い立場にいる時、あらゆる事を言ってでも助けを乞うが、自分が強い立場になった時には、まず一番重要な立場にいて、貴殿のパートナーに近い人間や色々貴殿の秘密を知っている人間を追い落とし、弱くさせながら自分の思うようにコントロールするやり方をずっとしてきている」と断じているが、それが宝林株に始まる合意書に基づいた株取引とそれで得た巨額の利益を独り占めしていくに当たって、西を最大限に利用して合意書の約束を無かったことにしようとしたり、A氏と鈴木の関係を疎遠にしようと謀ったりした一連の行状に如実に表れている。

そして、西が香港で事件に巻き込まれて以降、鈴木の強欲はさらに激しさを増し、A氏の人格や社会的信用を極端に貶めてでも金を守ろうとした。青田光市と平林英昭を使って、合意書に基づいた株取引は無かった、和解書に署名したのはA氏と西に強迫強要されたからだった等、あらゆるウソを重ねて交渉を決裂させ、A氏が止むを得ず裁判を起こすと、長谷川がさらに嘘を倍加させてA氏が反社会的勢力と密接関係にあり、暴力団関係者を背後の金主元にしたプロの金融業者であるかのような心証を裁判官たちに強烈にうえつけようとした。青田や平林、長谷川達にどれほど裏金での報酬が約束されていたのかは不明だが、法の番人として弁護士の資格を持つ平林や長谷川の鈴木への関わりは、明らかに人としてやってはいけない手段を使った罪は極めて重い。

これまでに何度も繰り返し述べてきているように、鈴木を始めとして青田、平林、そして長谷川達が犯した罪はそれぞれ自分自身だけの問題ではなく、家族や身内にも影響が及ぶ。刑事罰を科される人間の社会的責任はそれほど重いということなのだ。

【系 譜】

この事件は、20年前の平成11年春、鈴木義彦と西義輝による大規模な仕手戦に端を発していた。その4年ほど前の平成7年に西と出会った鈴木が、経営するエフアールの資金繰りを相談。その結果、A氏と西、鈴木が会うことになる。それから間もなく、親和銀行不正事件で鈴木が逮捕・起訴(平成12年に懲役3年、執行猶予4年の有罪判決)され、半年後に鈴木が保釈されると、西が鈴木の再起を手助けすることを口実に、A氏へ株投資プロジェクトの提案をする。3者での株式投資プロジェクトに関する「合意書」が作成された。

最初に仕掛けた銘柄(宝林)で160億円以上の純利益が上がったが、しかし、A氏への経過報告義務違反と利益金額の虚偽報告で、鈴木と西の裏切り行為が始まる。宝林に始まる仕手戦での裏切りは、最初からの計画だと思わざるを得ない。以下、主だった関連事実を時系列で示す。

1978.04 鈴木義彦が宝飾品の卸売・販売業「富士流通」を創業。

1984.  業態を小売主体に転換し、海外ブランドの時計、バッグを扱う。

1989.  社名を「エフアール」に変更。鈴木を知る関係者によると「鈴木と天野は若いころに暴走族仲間だった。会社の幹部は全て友達で固めていたので、鈴木社長の決定は絶対だった」と指摘する。

1991.  株式を店頭公開。

1992.  9月期の売上高268億3200万円を計上。粉飾決算だった。

1995. 西義輝と鈴木義彦が知り合う。鈴木がエフアールと鈴木個人の資金繰りで西に相談。西が旧知の田中森一弁護士を親和銀行顧問に据え、結果、鈴木は新たな融資を引き出した。

1997.  8月頃、西が鈴木をA氏に紹介。間もなく鈴木への貸し付けが始まり、短期間で手形により約17億円、借用書により3億円と8000万円が貸し付けられた。加えて、鈴木はピンクダイヤモンドと絵画を持ち込み、A氏は言い値の3億円で買ってあげた(絵画は持参しなかった)。また、A氏保有の高級時計(13本上代約45億円分)も同様に持ち出した。

1998.05 28日、鈴木がA氏の会社を訪れた際、A氏より逮捕情報を聞かされた。鈴木はピンクダイヤモンドと絵画を「売らせてください」と言ってA氏より預かり、予め用意していた「念書」をA氏に渡した。また、現金8000万円を借り受けた。鈴木は西の妻からも1800万円を借りていた。西に対してはエフアールの存続対策や愛人と子供の生活費への工面等を依頼し、西は鈴木の逮捕後、愛人に毎月50万円~60万円を渡した。

31日、親和銀行不正融資事件で鈴木が警視庁に逮捕される。不正融資は1993年頃から始まっていた。

1998.12 鈴木が保釈され、都内の愛人宅に身を寄せた。西が朝から酒浸りの鈴木に早く日常を取り戻すよう説得し続けた。

1999.03 勧業角丸証券課長の平池より西に宝林株800万株の売却話が持ち込まれる。西は約1か月の調査の後、株購入を決断。購入資金3億円をA氏より借り受ける。宝林株取得に当たり、鈴木は海外のオフショアにペーパーカンパニーを用意し、うち3社を引受の受け皿とした。宝林株を高値で売り抜けようとするが、株価を高値で維持する資金が続かず、鈴木と西はA氏に資金協力を求めた。

1999.05 20日から末日にかけてA氏が宝林株取得資金3億円を西に貸し付けた。

     31日、宝林株売買契約が成立。

1999.07 8日。A氏、西、鈴木の3者で「合意書」を作成。西と鈴木による仕手戦の底支え資金をA氏が提供することが合意された。

1999.07 30日、宝林株で利益が出たとして西がA氏に15億円を届ける。実際の純利益は50億円を超えていた。なお、この時、西は「私と鈴木の取り分は借入金の返済に充てる」と言い、A氏は15億円を受け取り、西に1億円(西と鈴木に5000万円)を渡した。翌31日、西と鈴木がA氏の会社を訪ね、15億円の処理を確認するとともに、A氏より5000万円ずつを受け取ったことに礼を述べた。鈴木と西はA氏を外して利益を分配するとの密約を交わし、鈴木は西に「合意書」の破棄を執拗に迫った。西がそれに応じ「合意書は破棄した」と鈴木に伝えたことで、複数回に分けて報酬10億円が鈴木より支払われた。

金融庁へ宝林株の「大量保有報告書」を提出するにあたり、外資系投資会社の代理人についた杉原正芳弁護士は資金の出所につき「紀井義弘」と虚偽の申告をした。平成18年10月にその事実を知った紀井が杉原に抗議するも、杉原からは一切返事はなかった。

鈴木は西に「今後はM&Aを専門とする会社を作る必要がある」と言い、ファーイーストアセットマネージメント(FEAM)が設立された。鈴木が西に申し出た要求の一つが専用の車と給料の提供で、「(車は)関西のグループとの付き合いでは見栄も必要となるので、黒のベンツに」とか「給料は社会保険付きで」と言った。ベンツの購入代金が1400万円、専属の運転手の雇用で1200万円、他にもガソリン代や維持費等で250万円がかかり、鈴木への給料に至っては2250万円を支払ったと西は言う。さらに鈴木の愛人に50万円~60万円、鈴木の実父に60万円の給料をそれぞれ支払う約束をさせられ、それに伴う費用が約2000万円を要した。エフアールの専務だった大石高裕の妻に5000万円の貸付を発生させたのも同社だった。「鈴木と大石は公判中でもあり、鈴木から『大石の口を封じたい』という要請があった」。これらの支出は、鈴木が責任を持って利益を積み上げるという約束の下に西は実行したというが、鈴木から返還はなかった。これらの資金7億円以上を全てA氏が出している。

鈴木は親和銀行との示談交渉を進めた結果、平成12年1月11日、和解金約17億円の支払いを約束して成立した。これにより、鈴木が判決で執行猶予となることが確実視された。A氏はこの示談交渉の経緯を知らされておらず、株取引の利益をもって支払いを約束し実行した行為は「合意書」に違反したもので横領に当たる。

1999.09 30日、鈴木の要請に基づいてエフアールの決算対策を名目に鈴木より預かっていた手形の原本と「債権債務は無い」とする「確認書」を渡す。「確認書」が鈴木に頼まれ便宜上作成したものであったことはいくつもの書類で明らかであり、債権者の側近であったエフアールの天野裕常務も認めていた。

2000.09 20日、鈴木に懲役3年、執行猶予4年の有罪判決。前後してエフアールが社名を「なが多」に変更(9月)。

2001.  エフアールが9月期の売上高32億6100万円を計上。

2002.02 27日、西が志村化工の株操作容疑で東京地検特捜部に逮捕された。しかし、西は取り調べで鈴木の関与を否定。特捜部は鈴木の逮捕が最終目的であったが、西は逮捕前に鈴木に懇願され鈴木を100%かばった。

2002.03  この頃より霜見誠がジャパンオポチュニティファンド(JOF)のマネジャーとして鈴木の資金を運用か。

2002.06 A氏が西に鈴木の債務処理を確認。西は「今後は、株取引の利益が大きく出るので、鈴木の債務を圧縮してほしい」と依頼。A氏は鈴木への貸付金40億円超を25億円にすることを約した。6月20日、西がA氏に対して債務が323億円あることを承認する「確約書」を手交した。

6月27日、改めて借用書の作成が行われたが、その際に鈴木が「社長への返済金10億円を西さんに渡している」と発言したことから、A氏が西に確認を求めると、西が10億円の受け取りを認めたために、額面が鈴木は15億円、西が10億円とする借用書をそれぞれが作成し、確定日付がとられた。また、鈴木が「年末までに返済しますので、10億円にしてください」というので、A氏は応諾した。

2002.12 24日、鈴木がA氏の会社に10億円を持参した。後日、A氏が西に金の出所を聞くと、西は「海外の投資家を騙して用意した金で、鈴木は身の安全に神経を使っている」と答えたが、それは全くの作り話だった。しかし、A氏は鈴木が株取引の利益を巨額に隠匿している事実を知らなかったため、西の話に頷いた。

2005.10 ホテルイースト21のラウンジにて西と鈴木が面談。株取引の利益分配金の授受について語られる。その際に西が「合意書」の話を持ち出すと、鈴木は「合意書及び借用書は、平成14年に破棄したと言ったじゃないですか」と反発した。分配金の授受は鈴木の提案で、香港で43億円分の銀行振出の保証小切手を渡し、残る約90億円は3か月以内に海外のオフショア口座を2社ほど開設して、そこに振り込むという約束が交わされた。実行は西の執行猶予が解けて、パスポートを入手できる翌年8月以降となった。

2006.02 「なが多」が社名を「クロニクル」に変更。同社は持ち株会社となる。

2006.10  2日、西が利益分配金の受け取りで長男を伴って香港へ行く。ところが43億円の保証小切手受領直後にワインを飲まされ意識不明に陥る。リパレスベイで瀕死の重症を負って意識不明のまま簀巻きにされた状態で香港警察に発見される。所持品全てを奪われていた。

2006.10 13日、西の事件を聞き、A氏が鈴木に連絡。A氏の会社を訪ねた鈴木にA氏が尋ねると、鈴木は一切を否定し「西とは何年も会っていない」点を強調した。また、A氏が「合意書」を提示して事実関係を尋ねると、西から破棄したと聞いていた鈴木は驚いたが、それも「株取引は行っていない」と否認し、すべては西の作り話だと強調した。そこで、改めて西を交えての協議をすることになった。西が紀井義弘と面談を重ね株取引で売りをかけた銘柄と利益を聞き取ってきたが、紀井はその後にその明細をリストにまとめた「確認書」を作成した。

16日、A氏、鈴木、西による三者協議が行われ、A氏が鈴木に株取引の状況説明を求める。鈴木の「利益は約60億円」という言葉を前提にA氏が了承し、「和解書」が作成される。鈴木は西とA氏にそれぞれ25億円を、毎月10億円ずつ5ヶ月で支払い、さらにA氏には別途で20億円を2年以内に支払う約束をする(テープに録取)。鈴木はその後も頻繁にA氏に架電して「和解書」で約束した支払いについて追認するとともに10月23日にもA氏を訪ねて面談を重ねた。

2006.11  鈴木がA氏宛てに手紙を送付し「和解書」の撤回を通告。平林英昭(弁護士)・青田光市を交渉の代理人とする旨を通知。それに対し、A氏は当事者間での話し合いが必要との内容の書面を平林経由で鈴木に伝えるが、鈴木は2通目の手紙をA氏に送り、代理人による交渉という考えを崩さなかった。以後、鈴木との連絡が完全に途切れ、鈴木は所在不明となった。交渉役に立った青田光市と平林英昭は、交渉を解決ではなく決裂させることを目的にしていた。

2007.03 A氏が初めて平林と面談した際、平林が開口一番に「社長さん、50億円で手を打ってくれませんか? それであれば、鈴木はすぐにも支払うと言っているんで……」と言ったが、A氏は株価の買い支え資金として総額200億円超を出してきた経緯から「それは応じられません」と拒んだ。以降、青田と平林の対応はことごとく「合意書」「和解書」を無効にするための発言や主張に終始した。青田は「鈴木はA氏と西に脅されて、その場を切り抜けるために止むを得ず和解書に署名指印した」「会社のあるビルのエレベーターを止められ、事実上の監禁状態に置かれた」などという虚偽の発言を繰り返し、平林もまた「合意書」を指して「こんな紙切れ一枚で」と極めて不謹慎な発言をするとともに鈴木への貸付金についても支離滅裂な理由を並べ立てて難くせをつけ続けた。

青田と平林の言いがかり的な質問や主張に対応するため、A氏が天野裕と面談。天野は「鈴木の目が怖いので社長と会ったことは秘密にしてほしい」と言ったが、平成11年9月30日付の「確認書」や鈴木が株取引で470億円超という巨額の利益を上げた点について真実を語った。その後、A氏と面談した事実が鈴木に発覚し、天野は「A氏とは会うな」と厳しく叱責され、以降、鈴木と天野の間には亀裂が生じていった。

この時期、鈴木が改めて証券市場で活発な動きを見せ始めた。西との株取引で関わったアポロインベストメントがステラ・グループに商号変更し、同興紡績やオーエー・プラザなどを傘下に治めるとともに数多くの業務提携を進め、業容の急拡大を見せた。鈴木による企業支配の実例である。また、青田光市により「赤坂マリアクリニック」の乗っ取りが行われた。

2007.07 7日、鈴木がエフアール社長時代に資金繰りで山内興産(末吉和喜)から預かった株券をめぐって山内興産から訴えられた訴訟で、鈴木に対し10億円を超える支払い命令が出たが、鈴木より示談交渉を進めた結果、4億1900万円を支払うことで和解が成立した。鈴木は明らかに詐欺に等しい行為を働いていたと西は指摘していた。

2008.06  A氏が鈴木との交渉で代理人に立てた利岡正章が、静岡県伊東市内のパチンコ店駐車場内で暴力団構成員ら暴漢二人に襲撃され瀕死の重傷を負う。利岡は相手方の組長と話し合い、事件の黒幕を明かすという約束で示談に応じたが、組長は態度を曖昧にし続け約束を果たさなかった。しかし、複数の関係者の証言で襲撃した二人と青田との接点が発覚し、鈴木と青田の殺人未遂教唆が明らかになるが、鈴木と青田が金の力で隠蔽工作を図り、教唆事件は表沙汰にはならなかった。

2009.11 2日、西がA氏に改めて債務を承認する「承諾書」を作成、手交した。そこには鈴木への債権137億円が明記された。

2010.02 西が夫人の故郷にある別邸で自殺。A氏を始め、鈴木、青田、茂庭、鈴木の実父そして家族に宛てた遺書を残した。直後にA氏は西の妻と子息を伴い鈴木の実父徳太郎を訪ね、鈴木本人との面会を要請した。徳太郎と鈴木の妹が同道して最寄りの警察署に向かい、警察署にて鈴木に架電するも、鈴木は警察署に来ることはできないと拒否した。鈴木は翌日か翌々日にもA氏に電話すると約束して電話を切ったが、その約束を守ることはなかった。鈴木の対応を見れば明らかなように、「和解書」の作成経緯にA氏や西の脅迫があれば、その旨を警察署で明確に主張する絶好の機会であったはずだ。ところが鈴木は自らその機会を拒んだのである。青田と平林を含め鈴木の言う強迫なる者が実態のない言いがかりであることが分かる。

2011.06 ステラ・グループが上場廃止。

2011.08  3日、クロニクルの天野裕(会長)が京王プラザホテルの客室で自殺。しかし同社は「未明に心不全が原因で自宅で急死」と発表した。天野の周辺関係者の間では「JOFからの資金の運用方法をめぐり、鈴木との間にトラブルがあったのではないか」という証言がある一方、「殺されたのではないか」という証言も多くあったが、病死で処理された。

2012.09  クロニクルが売上高約990万円、当期純損失約29億6000万円を計上。

2013.01 前年12月から失踪していた霜見誠が、妻と共に埼玉県久喜市内で遺体で発見された。後に殺人、死体遺棄容疑で渡辺剛らが逮捕される。霜見は鈴木の株式取引の窓口となり、鈴木の隠匿している資金を運用していた関係が指摘されたが、事件は解明されない謎が多く残っている。

2013.07  クロニクルが有価証券報告書を期限内に提出できず上場廃止となる。

2015.07 8日、A氏が鈴木義彦に対して貸金返還請求の訴訟を東京地裁に起こす。

2018.06 11日、東京地裁の一審判決でA氏の請求が退けられた。A氏が控訴。

2018.11 28日、東京高裁の二審判決でA氏の請求が退けられた。