「巨額債権」の使い方で支援金案が浮上

種子田益夫は借りた物は返すという社会の最低のルールさえ守ろうとしなかった最悪の人間である。そして病院の権益を種子田家の資産と思って必死に守ってきた長男の吉郎も父益夫の轍を踏み続けてきた。
平成7年に表面化した安全・協和両信用組合を巡る特別背任事件以降、武蔵野信金、国民銀行、東京商銀信用組合等、平成15年頃までに金融機関を巡る事件が目白押しだった中で、種子田は逮捕起訴され、その後は有罪判決を受けて懲役に服するという時間を過ごしたが、種子田は本気で病院の権益を守るために顧問の関根栄郷弁護士を使って切り離しを仕掛けた。
種子田自身が買収し、運転資金を調達して作り上げた病院グループは医療法人常仁会を軸に晴緑会、明愛会、愛美会という4つの医療法人からなり、7つの病院を東京本部が統括するという形態になっている。本来ならば、それらの病院のオーナーは種子田益夫であるから、最低でも種子田の個人資産として認められなければならない。ところが、前述の金融機関を巡る事件で不良債権化した種子田への融資は種子田が有罪刑を受けても求償債権として残り、中でもRCC(債権回収機構)が種子田に徴求した債権は53億円にも上っていたことから、それによって病院グループが債権のカタに取られることを恐れた種子田は、種子田自身が統率するアイワグループ企業から病院グループを完全に切り離す作業を本格化させたとみられる。

昭和50年代から愛和グループで医療関連事業に携わり、資本参加していた太田薬品を中堅の医薬品会社にM&Aをさせたことで実績を上げた田中延和氏は、その直後から種子田に指示されて前述の東京本部(所属病院は4か所)の立ち上げを開始するとともに、これも種子田から長男吉郎の教育を指示されて、医療雑誌が企画したアメリカの医療業界の視察に1か月間出かけた。長男の吉郎は医学部や薬学部を卒業したわけでもなく(日大芸術学部は不正入学と言われる)、医療業界のことは何も知らないで父益夫に言われるまま立ち上げた東京本部の常務取締役に就いたにすぎず、あまりにも無謀な“就職”だったに違いない。
田中氏が述懐しているが、種子田が買収した病院はもちろん経営がおかしくなっていたから、新たに資金を継続的に投入しなければすぐにも破綻する。それ故、その資金調達や、その後の病院買収資金も全て種子田益夫に頼らざるを得なかったという。

種子田は表向きには事業家を装い、宮崎や広島、兵庫などに複数のゴルフ場を経営していたが、実態は火の車状態にあっただけでなく定員をはるかに上回る会員権をそれぞれのゴルフ場で販売したために、バブル景気が崩壊してゴルフ場経営が立ち行かなくなるとともに会員権相場も低迷が続く中で、種子田のゴルフ場の経営が安定化するはずはなかった。というより、種子田はウラで乱売した会員権の売り上げを毎日のように銀座のクラブに繰り出すなどして好き放題に消費していたのだ。銀座のクラブの経営者や店長たちの会話で種子田が有名にならないはずはなく、多い時には1か月で8億円も飲み代に落としたという話が瞬く間に広がった。
実際の種子田の日常は株式市場で仕手戦を仕掛ける相場師への資金融資でハイリスクハイリターンによる利益獲得を目指し、それを業とするほどにのめり込んでいたから、法的にも問題のある行動を繰り返していた。もちろん、そのような博打的な資金操作は事業というには程遠く、それゆえに種子田はその事実を世間には隠し、唯一経営が安定化し始めていた病院経営をさらに拡大するために周辺から借り受けた資金を集中的に投下していたのである。

T氏が種子田と知り合い、度重なる融資依頼に応えていったのは種子田がそんな状況にある頃だった。
種子田は安定化し始めた病院をエサにしてT氏とT氏の知人友人に詐欺を働き、40億円以上の金銭を騙し取った。
T氏が種子田と知り合った当初、種子田の融資依頼は他の債権者への返済の肩代わりだったが、その後も毎日のようにT氏の会社に押しかけ、借り入れを依頼する種子田にうんざりして融資を断ることも多かったT氏だったが、そのたびに種子田はT氏の目の前で土下座するや、涙ぐみながら「回ってきた手形を落とさなければ、会社が破綻してしまいます。何とか助けてください、お願いします」と言われ、T氏が応じるまでその姿勢を崩さなかった。
T氏も根負けして融資に応じていたが、種子田からの返済は無かったから限界は遠からずやってきた。すると、種子田が病院やゴルフ場を担保として提供すると言い出した。
「病院は、息子の吉郎に理事長をさせていますが、実際は私が経営者ですから、いつでも担保提供に応じられます」
と言って、T氏に加えT氏の知人友人にも話を持ちかけて融資をお願いしたいと言う。T氏は聞くだけならということで知人友人の声をかけたがその中の何人かの関係者が、病院が担保になるならばと言って種子田の話を聞くことになった。種子田はT氏と数人の関係者がいる前で、愛和病院が中核になって病院グループを作っていると言いながら、
「牛久の愛和病院は東邦大や東京女子医大、それから京都大学の応援を受けて医師を派遣してもらっていて、病床も500床前後もあり診療科目も充実しているので信用があります」
と饒舌になった。その後もT氏や関係者たちの前で「病院は息子に任せていますが、息子も病院は父からの預かり物なので、いつでも必要に応じてお返ししますと言っていますから、安心してください」と言ったことから、T氏と関係者たちは種子田の話を全て真に受けたわけではなかったが、融資を継続することに同意した。
しかし、種子田からの返済は一向にないばかりか、種子田が約束した病院の担保提供をT氏が促すと、種子田は「病院は公共性が高く、厚生省を始め地元の自治体や医師会、社旗保険庁などの監視が厳しいため、しばらく時間をください」と言ってなかなか応じず、次第にT氏の会社に来る足も遠のきだした。そして、前述したように金融機関巡る事件が続発し、種子田が警視庁や東京地検特捜部に逮捕されるという事態が相次いだのである。その間に種子田の側近たちがT氏の会社に状況の説明に訪れていたが、病院の担保提供については一切触れられる立場にはなったようで、また経理担当者が債務残高を計算した書面を毎月作成してT氏の会社に持参していたが、種子田がようやくT氏の前に姿を現したのは平成15年5月のことで、T氏が知人友人を巻き込んで融資を行ってからすでに10年近くが経っていた。種子田が経理担当者の作成した債務残高確認書に署名押印した際の債務残高は金利込みで368億円以上に膨らんでいた。

種子田は病院の担保提供について、自分からは一切話そうとしなかったため、T氏が確認を求めると、厚労省や地元自治体の許諾が得られず、すぐに担保提供はできないと言いつつ、「愛和病院は500億円以上の価値があるので、いざとなれば売却して返済します。まだ余裕がありますので引き続き融資をお願いします」と呆れ返るようなことを言う。T氏は黙って聞いていたが、すでに病院を売却してもらうしかないと決めていたようだ。
しかし、その後も種子田の身辺は事件がらみで慌ただしく、公判で有罪判決を受けて懲役に服することが決定したために、T氏はその後の数年間、種子田とじかに会って協議す場を作ることができなかった。
T氏は金融が本業ではない。そのために、知人や友人が困っていて金銭的な支援で解決するものであれば融資をするということだったから、担保も取らずに借用書だけで快く貸し付けるということが大半で、融資をしても相手に返済を得するということは無かった。種子田がT氏の人の好さに付け込み、知人友人まで撒きませて借り入れを頻発させ、揚げ句に病院を担保にすると嘘を言って金銭を騙し取ったのは、明らかな詐欺だった。

前述したように種子田からの返済が無い中で、T氏は融資に巻き込んだ知人友人への返済を継続していたが、そうした中で種子田に対する債権額が膨らむ一方にあることから、T氏は知人友人たちに病院を売却した際の返済金を原資にして、何か社会貢献に使うことを考えてどうかという提案をしてきたという。気候温暖化の影響で以前とは規模が違う自然災害に見舞われる事態が頻発しても国の救済策が及ばずに住む家がすぐに再建できなかったり、日常の生活を取り戻せない人たちが多数いることが災害発生のたびに報じられる。また今はコロナ禍で人々の生活が激変して、仕事を失ったために住居さえ確保でない人たちが急増しているという情報も報じられている。こうした状況を補助的に支援する組織を作り、何らかの活動に資する資金として考えてみてはどうかという。その話を聞いた知人友人ほか関係者たちが反対するわけもない。種子田に対する債務の問題が早期に解決去ることがT氏たちの間で合意されているという。

T氏が、種子田逃げ回ってばかりいて一向に具体的な進展がないことに業を煮やして、債権の一部を請求額とした訴訟を提起してしばらくすると、種子田が令和2年10月13日に病死していたことが判明した。80歳を超える高齢で会ったことからT氏もある程度予想していたことだったが、さらに長男の吉郎を筆頭に安郎と益代の弟妹が揃って相続放棄の手続きを取っていることも判明した。
T氏は吉郎に対して、種子田が約束した病院の担保提供や売却による返済の話を確認しようと努めたが、関根弁護士が邪魔をして吉郎に会わせようとせず、吉郎自身も理事長の座にアグラを書いているだけで父親の債務問題を解決する素振りさえ見せなかった。そのうえ、父益夫が死んだら相続放棄とは断じて許されることではない。
吉郎以下弟妹とその家族は病院の権益から上がる収益によって、存分に豊かな日常を確保している。決して父親の債務を返済する能力がはずはなかった。ただ、父益夫が生きている間にさまざまな障害を作ってきたから、何事もなかったように感じていただけである。借りた物は返すのが道理である。T氏と協議をして具体的な返済計画を立てるか、もしくは愛和総合病院ほかグループの病院を売却して生産するか、いずれにしても吉郎たち兄妹が今まで同様にのうのうと暮らす日々は父親の死とともに終わりを告げたという認識を持つことだ。(以下次号)

 

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