疑惑 強欲の仕手「鈴木義彦」の本性

第1章 事件の萌芽

時代背景
戦後75年を迎える日本。様々な疑獄事件や詐欺事件が起きている。政治、金融、宗教、そして投資絡みといったようにジャンルは異なるがその都度マスコミを賑わし、世間の注目を浴びてきたことは少なくない。
そんな中、株式投資絡みで「1000億円脱税疑惑事件」に発展するような、日本史上最大で未曾有の事件の真相を追求していく。この事件は当事者の鈴木義彦が闇に身を潜めるように関係者との接触を故意に遮断し続けてきたことにより、問題は一切解決することなく現在も継続している。
一方で、鈴木に対して国税局及び、警察、検察庁の調査、捜査も表面的にはおよんでいない。また鈴木は、複数の殺人、不審死、行方不明、殺人教唆、背任横領、詐欺等の事件に関与していて解明すべき多くの真実が隠れ潜んでいると思われる。
時代はバブル景気が崩壊し、金融機関が中小企業への貸付金を強引に回収する「貸し剥がし」や融資を引き締める「貸し渋り」が横行し全国規模で倒産企業が急増していた。証券業界ではバブル景気崩壊から永らく続く不況を打破して好況を取り戻そうとする政策が日本政府(金融当局)によって推し進められていた。そして株式市場の活性化により景気の好況感を生み出すため既存の1部、2部の市場よりも上場の審査基準が緩和された。それによって起業間もない企業や先行投資などにより赤字決算を余儀なくされている企業も新規に上場できるようになった。また、1963年に発足した店頭登録制度は日本で初めての新興企業向けの市場だった。上場した新興企業は2010年までの10年間で199社に上ったが、そのうち上場廃止は34社もあった。その多くは新興企業にありがちな事業基盤が脆弱なことが原因だった。
これらの現象は景気の活性化に繋がらず、逆に決算の粉飾で上場した企業が相次いで発覚し、上場することによって一般投資家の投資意欲を煽り、上場直後の最高値をピークに株価が下落の一途を辿るというケースは珍しくない。
市場としての信用度が低落する一方であったがそうした銘柄(ボロ株という)が実は市場では仕手化しやすくマネーゲームを過剰に演出するターゲットになっていた。まさに鈴木や西のような虚業家が自分で立ち上げて上場した会社を舞台にして一般投資家を煽り、資金を集めてマネーゲームを始めようとしていた。
ボロ株に目をつけて安値で買い、スポンサーに資金を出させて買い上がり、高値が付いたところで売り抜ける。そして買い支えに要した資金を除いた利益金を出資者に配当するというスキームである。しかし鈴木という人間は出資者であるA氏や同志である西を騙し、取引内容を報告せず利益を独り占めして海外に隠匿するという非人道的なやり方をする悪党なのである。
このような事件を許さず、鉄槌を下すのが裁判所であるが、判決を下す裁判官が先に書いたような時代背景を認識せず理解もできず、原告が提出した数多くの証拠を無視するように一方的な判決を下し、明らかな誤審を犯していくのである。筆者は取材を通してこれでは「正義はどこにあるのか」と憤りを感じると共にこのまま終わらせてはいけないと肝に銘じ、「悪党!鈴木」と鈴木の嘘を擁護し、A氏の名誉まで毀損して鈴木の嘘を正当化した長谷川幸雄元弁護士、不整合な弁護を繰り返し、裁判を長引かせた平林英昭弁護士、鈴木に加担して公文書偽造(金融庁への報告書)した杉原正芳弁護士、鈴木の影の存在として数々の悪事に加担する青田光市を徹底的に取材していく。そして「刑事事件」として告訴、裁判官に対する「弾劾裁判」をも辞さない覚悟をしているという関係者の決意と今後の行動に注目し、鈴木という悪党とそれを取り巻く人間を世間の目に晒していく。
ちなみに2015年にネット情報誌に掲載された西義輝の自殺に関する記事の削除申立で、鈴木は「陳述書」まで提出するという異例な対応をしていたが、その中で「証券、金融口座が開けない」と吐露した。しかしそれは鈴木自ら「反市場勢力」と金融当局から認定されていると告白しているに等しいではないか。もちろん口座開設拒否の責任を情報誌に押し付けること自体、余りにお門違いの言いがかりで論外だが、先のネット情報誌でも鈴木が裁判に勝訴したことに疑問を持ち、裁判記録を検証する中で、先ずは裁判に至る経緯を取り上げ、さらに鈴木が事実を隠蔽するために吐き続けた嘘の数々を列挙し、さらに訴訟の場で裁判官が何故鈴木の嘘を見抜けず(誤審)、誤りの判決を下すことになったかについて具体的に検証した。それにもかかわらず、鈴木は何ら抗議をすることも無く、また責任ある回答もしていない。それどころか、判決を受け削除された記事が残存しているとして、鈴木は通信業者だけに圧力をかけ、その後に発信した記事には一言も反論していないのである。本当におかしな話ではないか。鈴木にも長谷川元弁護士にも答える義務があると考えるが、不可解にもダンマリを決め込んでいる。

親和銀行事件
西義輝は東京オークションハウス(以下「TAH」という)をA氏の支援を受けながら一時は順調に業績を伸ばしていた。
西が鈴木と初めて会ったのは恵比寿のウェスティンホテル2階にある中華料理店「龍天門」であった。そのきっかけは鈴木が代表取締役のエフアール(以下「FR」という)社の天野常務が社員数名を連れてTAHが開催していた骨董市のPRコナーを訪れ、興味を示したことから始まった。天野氏からこのことを聞いた鈴木が秘書を通じて西に何度も食事に誘い、「龍天門」で会うことになった。それが平成7年10月6日の事だった。
当時、FR社は渋谷の南平台に本社があったが、オークションの事業提携のためにFR社はTAH社が入居していた三井信託銀行が保有する麻布にあるビルの6階に西の紹介で本社移転を行うことになったと西の関係者が言う。その後、お互いに会社の経営状態を語り合うようになったが、鈴木は平成8年4月頃、長崎にある親和銀行に絡む問題とFR社の資金繰り悪化を打開するため新たな資金を親和銀行から融資を受けようとしている事について西に打ち明けた。
鈴木はFR社の資金繰りが逼迫していることから親和銀行から融資を受ける方策を模索していたとみられる。この事件の詳細経緯については今回の事とは別の事件なので省略するが、鈴木は親和銀行の総会屋的役割を担っている人物と、某暴力団組長が親和銀行頭取のスキャンダルをネタに銀行を脅かしているという情報を掴み、銀行に味方する振りをしてその問題に関与することになり、相手方を抑える役目を買って出た。そして手練手管を駆使して地方銀行としては異例の額の融資をさせた。相手方とも通じて融資金の一部をコンサルタント料名目で相手方へ還流させるという手法を企てた。この時期に西は鈴木に助力するように面識のあった有名な「ヤメ検弁護士」の田中森一(故人)を親和銀行に紹介し、田中は親和銀行の監査役に就任した。鈴木はこのことを最大限に活用し、偽造宝石や価値のない不動産(山林40万坪)等を担保にして100億円以上の資金を親和銀行から融資させた。例えば価値のない油絵他で20億円、西がA氏から借り出した多くのリトグラフ等(これはA氏の貸付金に含まれていない)を担保にして15億円の融資を受けた。その上、裏で総会屋側をけしかけて親親和行から解決金として12億円の融資を手にした。その手法はまさにマッチポンプで、鈴木及びFR社は親和銀行の味方をする振りをして信用されていることを逆手に取り、莫大な融資を引き出していった。(親和銀行事件に直接関係していた人物からの取材)しかも、鈴木は莫大な融資金を返済する気など毛頭なかったのである。まさに背任行為である。この時の鈴木の悪事を承知していながら傍観していた西も相当の悪だった。しかし、これだけの資金を手にした鈴木は尚も資金難に陥っていた。
一方、流石に天はこの時の鈴木の悪事は見逃さなかった。鈴木は平成10年5月31日、親和銀行特別背任事件で逮捕され、有罪判決を受けた(懲役3年、執行猶予4年)。鈴木は過去に刑事事件も含めて何度となく裁判で重要参考人として窮地に追い込まれたことがあったが、この時が初めての有罪であった。関係者への取材では、鈴木が犯した罪の重さと判決を比較すると、「この刑期は軽すぎる」のではないかと言う関係者が多い、裏取引があったのではないかとも言っていた。この裁判でも後に登場する長谷川弁護士が鈴木の代理人として名を連ねていた。
話は少し戻るが、鈴木は親和銀行からの融資で大金を手にしながらまだ資金難に陥っていた。これが、西が鈴木にA氏を紹介する原因となったのである。
鈴木はFR社を上場させるために決算を粉飾させていた疑いがあり、さらに上場後も、経営が思わしくない実情を隠すために株価を維持させるのに必死となり、「知人に株を買わせる」など違法すれすれの経営を続けていた。上場後の鈴木の構想ではFR社の株価を高く維持することにより、多額の資金調達をするという目論みがあった。知人名義でFR社の株を買わせるための資金を個人の借入等で賄っていたこと、上場前の借金の清算を行わなければならなかったこと、また、高額宝石の買取り保証や、その商品のファイナンスに多額の資金が必要であったこと等でFR社も鈴木個人も資金繰りが大変に困難な状況にあったという(西の回想録より)。
鈴木はそんな状況下で親和銀行の頭取のスキャンダルに乗じて100億円以上の不正融資を受けたにもかかわらず、自分の野望のために日々ぎりぎりの資金繰りをしていたのだった。この野望自体が一般投資家を煽り、株価を上げ莫大な創業者利益を得ようとする「騙し」の手法である。まさに詐欺師同然の振舞いだった。自分だけが裕福になろうとする習性が鈴木の本性だということが分かる。FR社を上場させたこと自体が胡麻化しなのである。
こんな状況を知りながら西はA氏に相談し、鈴木と会わせるのである。一番世話になっていて、長年にわたり迷惑を掛けてきたA氏に鈴木を紹介して支援を依頼する西の心境は理解できないが、西の心の中にも狡猾な思いが蠢いていたのではなかったか。平成9年秋ごろのことである。

(平成9年8月から同10年5月までの10か月でA氏は鈴木に約28億円を貸し付けたが、そのうち約17億円分については手形を担保に預かったが、実際には簿外の融通手形であり、金融機関に回せばFR社はすぐに上場廃止の憂き目にあった)

確認書
西の懇願もあってA氏は鈴木と会った。鈴木の第一印象は実直そうで無口な男だったと関係者は言う。A氏は西からおおよその事は聞いていた。鈴木は10日で10%以上の高利で複数の金融業者から借りていることもあり、相当追い詰められていた。西の話ではこれ以上借り入れをする先もなく担保もない状態で会社は倒産、個人は自殺を余儀なくされている状況だということだった。A氏はこの状態では近いうちに鈴木とFR社は破綻すると感じていたが、西と鈴木の強い依頼があったので、1997年(平成9年)9月8日に一回目の融資を実行した。その額は7000万円だった。西は、鈴木の代理人としてA氏に対して以下の内容の「お願い」と題する書面を差し入れた。

(平成9年8月25日、西がA氏に宛てた「お願い」。手形を担保に入れるが、金融機関には回さないで欲しいと依頼。A氏は約束を守ったが、鈴木は期日3日前に現金持参という約束を一度も守らなかった)

①今後、鈴木が借入する時はFR社の手形を差し入れる。
②鈴木は各手形の支払期日の3日前までに現金を持参する。
③西が借入の保証をする。
西と鈴木は手形の支払期日を貸付日の1ヶ月後とすることを条件にしたが、A氏は鈴木を助ける気持ちで融資を了承した。もともとA氏は、知人や友人に貸付をする場合に担保を取ったことは無かった。今回も瀕死状態のFR社の手形を担保に取るつもりはなかったが、鈴木と西の希望で手形を預かることにしたのだった。ただし手形は合計で13枚預かったが、鈴木から西を通じて「返済は期日の3日前に現金を持参しますので銀行から取り立てないでほしい」旨の依頼があったのでこれも了承していた。A氏は高金利先への返済用の資金として短期間で約17億円を融資したが、全額分担保が無かったことになる。その他、借用書で3億円と8000万円、さらに鈴木に懇願されて宝飾品1億2550万円の他にもピンクダイヤとボナールの絵画を3億円と全て言い値で買って上げただけでなく、その後、ピンクダイヤとボナールの絵画については3億4000万円での預託販売にも応じた。8000万円の貸付と販売預託については鈴木が親和銀行事件で逮捕される3日前のことだった。絵画は一度も持ってきたことがなく、他に担保として預けていたことが後日判明した。完全に詐欺行為である。そしてA氏所有の超高級腕時計(バセロン4セットほかパテックやピアジェ等13本で上代が約45億円)も鈴木の資金繰りを助けるために4億円で預託販売した。これらの合計約7億4000万円は、鈴木が代金の支払も現品の返却もしなかったことから貸付に変えた。以上の貸付金額合計は約28億1600万円に上った。A氏が借用書で貸した8000万円は鈴木が親和銀行事件で逮捕される3日前に来社したときに「このご恩は一生忘れません」と涙を流しながら土下座までして感謝していた金である。ピンクダイヤと絵画については鈴木とFR社の天野裕常務の署名入りの「念書」が証拠として存在するにもかかわらず、後日鈴木はピンクダイヤと絵画に関して前年10月15日に借り受けた3億円の金銭借用書に合致させて「ピンクダイヤと絵画を買い受けた代金の準消費貸借で、現金の授受はなかった」という在り得ない主張をするのである。ピンクダイヤを持ち出す7カ月も前に作成した借用書が合致する整合性はないし、この金銭借用書には3億円を借り受けるにあたっての担保が明記されていた(日本アジア投資株式会社の発行する1億円の証書)。しかもこの担保(証書)も西が「鈴木が困っているので」という理由で持ち出してしまった。
ところが、A氏が提起した「貸金返還請求訴訟」の裁判で、裁判官は鈴木とA氏の主張でどちらが正しいのか嘘かを認定もせずに、鈴木が「売らせてほしい」と言って持ち出した手続きの正当性や可否だけを論じて7億4000万円の債務を負うべきはFR社であって鈴木ではないと結論付けた。実務の責任者として天野氏が全く知らないというのは有り得ないことだ。

(平成10年5月28日、鈴木が親和銀行事件で逮捕される3日前に、A氏に差し入れた念書。鈴木の言い値の3億円で買って上げたピンクダイヤと絵画を「売らせてほしい」と言って持ち出すために用意してきた。絵画は一度も持参せず、他に担保に入っていたことが後に判明した)

また裁判官はバセロンほかの高級時計についても「原告によれば、合計45億円相当の価値を有する本件腕時計を4億円で販売することを委託するというのは、そもそも経済的に極めて不合理な行為というほかない」としつつ「販売価格の決定過程に関する客観的かつ合理的な説明はされていない」とした。筆者はこの判決について宝石業界を取材した。その結果、この判決は裁判官が宝石業界の慣習に疎く、というよりも無知であったためだということが分かった。要するに狭い世間しか知らず、自分の物差しでしか物事を判じられないような裁判官は、宝石業界で日常的になっている「委託販売」を理解していない。また、上代が45億円の高級腕時計を4億円で委託することも決して「経済的不合理」ではないことも分かった。そもそも裁判官は最高級腕時計の輸入原価を知らない。特にバブル時代の対ドル相場は極端な円高であったために、バブル崩壊までの輸入商品の原価は円高の影響でかなり安価だったという。高額な時計や宝石は売れるのに時間がかかる場合が多いので原価から上代までの幅(掛け率)が大きく、10倍近くをつけるようなケースもあるが、これは他のことと同様に鈴木を助ける目的でやっていることであった。こんな宝石貴金属業界の実情を裁判官は調査したのか、甚だ疑問である(判例集には載っていない)。しかも鈴木がA氏から融資を受けるにあたって、借入は鈴木個人であり、手形は担保もない鈴木と西が便宜上預けたもので、A氏の好意に甘えたものであった。それが証拠に、手形の発行が公にならないようにするため西(鈴木)は「支払期日の3日前に現金を持参するので銀行から取り立てに出さないで下さい」とA氏に頼んでいる(FR社の代表取締役として背任行為)。裁判官はA氏の証拠と主張は殆ど無視した。何を根拠にこのような判決を下したのか、当然不審が残る。この件についても後述「誤審」の章で書くことにする。

逮捕されることを知っていたにもかかわらず金を貸し、しかも全く返済をしていない人間にここまでできるだろうか。A氏は鈴木に返済の催促を一度もしておらず、親和銀行事件で逮捕される3日前に逮捕情報を鈴木に教えたのもA氏だった。A氏の周囲には瀕死の状況でA氏に支援を受け、A氏に借りた金を完済して立ち直って事業を成功させた人が何人もいるということが今回の多くの取材で判明した。今回の事件でA氏が手元に現金がない時は一時的にA氏に協力してくれた人もいたという話が取材の中で複数の関係者から聞こえた。A氏は周囲の人間が心配するほど希な器量と温情を持った人間なのだ。鈴木はこんな人を裏切ったのである。考えられない。恩義も義理も人情も持ち合わせない人間だったのだ。逮捕される3日前にA氏を訪ね、8000万円を借りた上にピンクダイヤを持ち出した鈴木は、自分が警察にマークされていることも逮捕されることも予め知って、ここまでやる人間はいないと思う。

(平成10年5月28日付8000万円の借用書。鈴木はA氏から親和銀行事件に係る逮捕情報を聞き、その場で借り入れを申し出た。「このご恩は一生忘れません」と言って涙を流し土下座までしたが、その後の鈴木のA氏に対する対応はとても同一の人間とは思えないもので、鈴木は目的のためには何でもやる人間であった)

それは、ピンクダイヤを預かるために鈴木とFR社の天野常務の署名がある「念書」まで用意していたからである。ここまでやるか! 鈴木は絶対に許すことのできない極悪非道さでA氏に対応していた。
以上のようにA氏は平成9年9月から平成10年5月までに鈴木に約28億円の融資をしたが、鈴木は平成9年9月頃には会社は倒産、個人は自殺、借入先の当てもなく、もちろん担保もない状態で、人生の窮地をA氏に救われたのであったが、鈴木は裁判では考えられない嘘を重ねた。全く想像を絶する悪党である。それを擁護した長谷川元弁護士、平林弁護士、そして鈴木の嘘の主張を見抜けなかった裁判官の責任は重大である。
取材に協力してくれた全員が、こんな人間に安穏な人生があってはならない、このままにして置く訳にはいかないと異口同音に言っている。
A氏が訴訟を起こす前から鈴木の代理人であった平林弁護士は、鈴木がFR社の約束手形を預けて借入れしていたこと、その借入れは鈴木個人のものであることを認識していたが、平林も審理の場では「債務者はFR社であり、鈴木個人ではない」と呆れた嘘の主張をするのである。もしFR社であれば、手形の書き換え等で天野が一度も対応しなかったのは有り得ないし、連帯保証も西ではなく天野がしたはずである。

(平成10年9月30日、西が鈴木宛に手形原本と確認書を交付してもらうためにA氏に宛てて手形の額面総額と同額の借用書を差し入れた)

平成10年9月のFR社の決算時、鈴木は逮捕起訴され拘留中だった。約束手形が借入金の担保としてA氏の手元にあることを知っていた天野氏は西を通じて「会計監査が終わるまで一時約束手形を戻してもらえないか」と依頼してきた。西に頼まれたA氏は約束手形を一時天野氏に戻してあげた。西もTAH社の上場を準備していた頃に、A氏に担保として預けていた手形を会計監査の時には預り証を差し入れて一時的に戻してもらっていたことが何回かあった。西は、その時と同じことだとA氏を説得して、鈴木が預けていた手形を一時戻してやることに協力したのだ。当然のことながら、この年は会計監査の終了後に手形はA氏の手元に戻された。

(西義輝がA氏に宛てた確認書。「FR社に交付した確認書(債権債務はない)は決算対策のために便宜的に作成した」ものであることを書面化した)
(平成11年9月30に付でA氏が鈴木宛に出した確認書。FR社の決算対策のため、便宜的に作成し、手形原本と共に西に預けた。その後、西がA氏に電話した際、鈴木が電話を代わり、A氏に礼を述べた)

上場会社に対する会計監査は生易しいものではない。使途不明の約束手形があることが露見すると、上場廃止となる罰則を受けることになる。そして平成11年9月、鈴木から西に前年と同様の依頼があった。そこで西がA氏に依頼すると、A氏は返済が一切なかったために躊躇したが、約束手形を一時鈴木に戻すことを了承した。しかし、その年は西が別途にA氏宛に「便宜上のものであるという確認証を自分が書いて差し入れる」と言って、FR社(鈴木)宛に「債権債務は存在しません」という「確認書」を発行して欲しいという依頼をした。A氏は流石にそれはできないと断ったが、西が前述の「確認書」と手形での融資約17億円の借用書も差し入れると言うので、A氏は渋々だったが交付することにした。もちろんこれは便宜上のものであり、実際に貸付金は一銭も返済されていない。ところが、鈴木は会計監査が終了しても手形を戻すどころか、手形原本と「確認書」が手元にあることを盾に取って「平成11年9月30日、西が私の代理でA氏と会い15億円を返済したことで、差し入れていた約束手形と交換で借入額は全額返済した」と言い出したのである。耳を疑う言い分であった。何よりも貸付金は元金約28億円であり、15億円では完済とはならない。A氏は鈴木の代理で西が書いた確認書と、手形の額面総額と同額の借用書との交換で西に約束手形13枚を渡したのである。まして返金したという15億円の現金の移動の痕跡など全くないのである。鈴木は西から手形と「確認書」を受け取った際、西がA氏に電話をした時に代わって「社長、無理なことをお願いして申し訳ありません。ご協力いただき有難うございました」とお礼を言っている。鈴木の稀代の悪党としての本領発揮である。西を利用してA氏を罠に嵌めたのだった。
A氏はこの日も西から頼まれて西の言う通りに鈴木に協力した。鈴木はA氏との重要な打ち合わせや書類作成の時は後々の事を考え、まるで西が後日、自殺して証人になれないこと、自分の悪事がばれないことを予見していたように西だけを行かせ自分は何時でも責任逃れができる状況を作っていた。これこそが詐欺師の常套手段であり、悪質な手口だったが、鈴木は借金に対して全て5%か10%で「今しか返済できない」と言って損切りさせ、しかも全ての書類を完璧に回収していたと鈴木の側近は言うが、この時は手形以外の書証類の全てがA氏の手元に残ったままであった。
このように、都合のいい時は西を代理人としてA氏との大事な話し合いをさせていたにも拘らず、裁判では「西に代理権は与えていない」(乙59号証)とまで主張をしたのである。
審理の場での鈴木の主張には多くの矛盾点があった。平林弁護士の弁護も二転三転し、A氏が鈴木に示した対応を指して「こんなことは到底考えられない」という言葉を連発した。鈴木が唯一、物的証拠として提出したのはA氏が便宜上書いて交付した「確認書」のみであった。しかし裁判官はあろうことか、A氏の債権額の返済について考えられない大きな間違いを起こしてしまうのである。関係者の多くのが、これは間違いと分かってやっているとしか思えないという。1~2か所であれば間違いと言えるかもしれないが、事実の認定で重要な部分がほとんど間違っているからだ。
次章で触れるが、鈴木と西による株取引で得た利益のうち15億円を平成11年7月30日に西が株の配当金としてA氏の会社に持参したが、裁判官はその15億円を鈴木の借入金の返済金と判断をしてしまったのであるが、日付が2か月もずれている。裁判官がそんな勝手な事ができるのか、しかもA氏が実際に貸した約28億円とは金額が一致していないことに疑問を感じないことが一番の問題だった。
A氏を始め関係者は誰もが納得していない。関係者に限らず毎回、ネット記事を愛読している読者から「誰が聞いても酷いやり方だ。裁判官と被告側とに何か密約があったのではないか。そうとしか考えられない」との投稿が相次いだ。
筆者もこの事件を取材している中で、裁判官に多くの不審を感じた。後述の「誤審」の章で裁判官への不審を検証する。

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