監督官庁・医師会は「長男佑人への世襲」を目論む吉郎の野心を打ち砕け

昭和61年に牛久愛和病院を買収した種子田益夫は、それまでに買収していた宮崎や高知等の病院を統括する東京本部を開設して、長男の吉郎を役員に据えると同時に、病院を運営する医療法人の理事長に就任させた。そして、今、吉郎は自身の息子である佑人を社団法人常人会グループの理事長に就けるとともに、グループの中核となるメディコム・アンドホールディング・マネージメント(以下メディコム社)という会社の取締役にも就かせて、着々と世襲の流れを作っている。社団法人常人会グループは経営コンサルタントを事業目的にしているが、コンサルタントは病院グループを統括するための名目だろう。またメディコム社はグループの各病院の施設を所有するだけでなく、病院が運営上必要となる医薬品を始め介護用品、医療用機器ほか想定するすべての商品の販売を手がけ、清掃や給食業務等も請け負うことを事業目的に謳っている会社だ。
同社は2018年度で約24億円を売上げ、経常利益は約2億円を計上しているが、これが吉郎を筆頭とする種子田一族の“財布”になっているのだ。

(写真:種子田吉郎。父益夫が買収した7カ所の病院理事長。益夫の巨額の債務に対し知らぬ存ぜぬの振りをしても、残された一族の徹底した相続放棄という手段で証明されている。吉郎は今、長男佑人への世襲を目論んでいるようだが、一方で吉郎が父益夫のやり方を十分に承知の上で相続放棄をすることは、人間として社会的責任が大きな問題となることで関係者への謝罪及び説明責任がある)

種子田益夫から長男の吉郎へ、そして吉郎の長男佑人へと病院グループの経営が引き継がれる中で、病院グループが事業として一定の成果を生み出している背景には、種子田益夫が最低でも3つの金融機関を不正融資で事件に巻き込んで潰し、さらに、「いざとなったら病院を売却してでも返済する」と言って債権者を騙し続けて、約束した病院を担保に供することも、元金はおろか金利さえ一切払わないまま病院の買収や経営維持の原資に充ててきた結果であることを、現理事長の吉郎は全く自覚もしていなければ「父親と病院は一切関係ない」という態度を取り続けてきた。こうした、極めて歪んだ病院グループの実態を、このまま吉郎が目論んでいる世襲で容認することは決して許されるものではない。

昨年末に田村憲久厚生労働大臣ほか迫井正深同省医政局長、大井川和彦茨城県知事、中川俊男日本医師会長に宛てて、吉郎率いる常仁会病院グルプに対する監督機関による指導を求める書面が送られていたことが分かった。書面を送ったのは種子田益夫(故人)に騙された債権者たちだが、種子田益夫は病院を担保に供すると言って債権者たちから融資を受けながら、いつまでも担保提供を履行せずに債権者たちから逃げ回っていただけでなく、長男の吉郎もまた病院グループを統括する理事長という要職に就きながら、父親の債権債務については一切知らぬ存ぜぬを通すという極めて無責任な対応をしてきた。種子田益夫は昨年10月13日に死亡したが、全責任を負うべき吉郎に対して監督官庁である厚労省と茨城県、並びに日本医師会が強力な指導をすべきであるという趣旨になっているという。
病院の債権債務に所管の厚労省や自治体等が口を挟む所ではないと思われるかもしれないが、種子田益夫が病院を買収するさ中にあって、新たに病院を買収し、あるいは買収した病院の経営を維持するために債権者たちは融資を実行した。当然、種子田が病院を担保にすると言い、長男の吉郎が理事長を務めているからいつでも病院の権限を父親の益夫に返すと言っているという種子田益夫の言を信じてのことである。しかも種子田は、いざとなれば病院を売却してでも債権債務の処理を、責任を持って履行するとまで言って債権者たちを騙し続けたのだ。その経緯からすれば、国民の命を預かる病院の経営が吉郎以下種子田一族によって支配されることで、ただ収益の確保だけに目を奪われて社会的責任を果たすことなど眼中にないという実情を放置することは監督機関として大きな問題であるはずだ。厚労省の大臣と医政局長、日本医師会会長、茨城県知事宛に吉郎がトップとして君臨する常仁会グループに対する適切な指導の強化を徹底することを求めるのは当然だが、病院を監督し指導する立場にあるそれぞれが、これまで常仁会グループに対して適切な監督指導が行われてきた形跡はみられない。

(写真:債務残高確認書。この一覧表はアイワコーポレーションの北条という経理担当責任者が作成し毎月持参していた。債務は平成15年現在で300億円を優に超えていたが、種子田には返済する意思は見られなかった)

吉郎が理事長として責任を問われるべきは、父親の種子田益夫が死亡した直後に、吉郎、益代、安郎の3人が一斉に相続放棄するという極めて悪質なやり方を実行し、さらに公共機関である病院を私物化しながら長年にわたってコンプライアンスに抵触する病院支配を行ってきた点にある。
常仁会グループは牛久愛和総合病院を運営する常仁会を筆頭に、晴緑会(高知、宮崎)、明愛会(北九州)、白美会(新潟)の各医療法人(7施設の病院)を傘下に置き、その他2つの社会福祉法人(介護施設)を擁する一大病院グループを形成しているが、医師の資格を持たない吉郎が理事長に就くことができたのは、医療法第46条の6の但し書きに基づき、当時の茨城県知事である橋本昌氏が認可した経緯があるからだった。しかし、吉郎自身には医療業界での実績も経験もなく、あくまで父である種子田益夫の指示で理事長に就いたに過ぎない。詳しい経歴は分からないが、吉郎の長男佑人もまた吉郎と同じく医師の資格もないまま病院グループのトップになりあがっていく積りに違いない。

(写真:陳述書。田中延和氏は種子田の側近で、長男吉郎を理事長にするために尽力したが、種子田は田中の功績に応えなかった)

種子田益夫は昭和61年に牛久愛和病院を買収しているが、吉郎が同院の理事長に就いたのが他の医療法人に比べて遅かったのは、吉郎の適格性が問われ続けていたためだ。中でも常仁会グループの病院はいずれも「地域医療支援病院」として運営しているが、医師の資格が無い者が理事長に就くために必要な要件(医療法第46条の6の但し書き)を整えるためには必須だったからである。
種子田益夫は、過去に法人税法、売春防止法(場所提供)等に違反して有罪判決を受けた身で、公共機関である病院の理事長に就けるものではなかった。
そこで、側近で医療業界に精通していた田中延和氏に買収した病院を統括する東京本部を立ち上げさせるとともに、田中氏は業界で培った人脈を生かして東京女子医大の医師たちを牛久愛和病院にスカウトしつつ他の大学病院にも人脈を広げていったという。そして、益夫は長男の吉郎を理事長に就かせる時機を狙っていた。当の吉郎自身は医療業界とは全く縁のないまま大学(日本大学芸術学部)を卒業後、わずか1か月間、米国の医療業界を視察した後に、俄か仕立てで開設した東京本部の役員に就き、病院経営のまねごとを始めたに過ぎない。それは、吉郎自身の意志に関係なく全て益夫がオーナーとして指示を出した結果である。ちなみに吉郎は外部に公表する経歴で学習院大学大学院修士課程卒業を強調しているが、同大学の資料によると、吉郎は平成14年に「日本におけるホスピスの運営と経営の研究」と題する論文で修士課程を終えている。吉郎が牛久愛和総合病院の理事長に就いて数年後のことだが、果たして吉郎にそれほど勉学の意欲があるとは思えず、ただただハク付けのためにしか見えない。

(写真:陳述書。村山良介氏は牛久愛和総合病院の院長として、種子田が同病院のオーナーであることを証言)

種子田益夫は、愛和グループを率いて事業家を名乗ってきたが、実態は虚業家そのもので、複数のゴルフ場を経営しているとしながら実際には公表した定員を遥かに上回る会員権を乱売する詐欺行為を繰り返した。それだけではない、種子田はいくつもの金融機関を経営破綻に追い込むような不正融資を実行させて、そこで調達した資金を株投機や遊興費に充てるという違法行為を厭わない人格の持ち主だった。
複数の金融機関での不正融資(主に特別背任)が相次いで発覚したのは平成8年頃のことだが、種子田は自ら事件の当事者になることを見越して、多額の債務返済から逃れるとともに病院グループを私物化する工作を弁護士に指示して愛和グループと病院グループとの切り離しを本格させた。その結果、3つの金融機関(国民銀行、東京商銀信用組合、武蔵野信用金庫)が経営破綻に追い込まれた。

(写真:日本医師会の桧田仁氏の陳述書)

病院の買収と買収した病院の経営を安定化させるために、種子田は個人の債権者からも多額の借り入れを起こしていたが、その大半が前述したように病院の買収と病院の経営維持のために費やされた。債権者に対しては「病院を担保にします」と言って債権者の友人知人をも巻き込ませ「いざとなれば病院を売却してでも返済します」とか「病院の理事長は息子の吉郎にしていますが、息子も『病院は父からの預かり物なので、いつでも必要に応じてお返しします』と言っているので大丈夫です」と債権者たちを前に繰り返し述べて融資を受けたにもかかわらず、いつまでも病院を担保にする約束を果たさず、返済も滞らせ続けた。「司法当局の取り調べや公判で時間が取れません」と側近や部下に言わせて債権者たちから身を隠し続け、何年も直接の面談を避けていたために債務総額は平成15年5月現在で368億円以上になっていた(種子田氏は債務承認をしている)。
種子田にすれば病院を担保にすることはいつでも可能だったはずである。しかし、種子田は病院の公共性を強調し、また厚生省(現厚労省)や地元自治体の許諾が得られないなどと言葉巧みに言い逃れ続けた揚げ句に所在を不明にしてしまったのだ。こうした種子田益夫の言動は詐欺にも等しく、吉郎は吉郎で益夫と悪徳弁護士の関根栄郷の指示により債権者たちとは一切接触をしようとしなかった。

(写真:陳述書。永田勝太郎氏は種子田に頼まれ東邦大学医学部の医師を多数常仁会グループ病院に派遣した)

監督機関に送られた書面によると、債権者たちは「債権被害者の会」を組織して、吉郎、益代、安郎さらには吉郎の長男佑人に対する債権処理を強く迫ると同時に、吉郎が何時までも常仁会グループの理事長職に居座り続ける問題を早く是正することを強く求めている。吉郎が今に至るも理事長職に安穏としていることは重大な問題であることは、厚労省を始め地元の自治体や医師会も薄々承知していたのではないかとさえ思われる。
債権被害者の会では、「種子田益夫氏が債権者をないがしろにして返済を怠り続け、逃げ回った揚げ句に他界し、益夫氏の子供たちは相続放棄をしてまで益夫氏の負の遺産を拒み続けながら病院グループの収益で豊かな日常生活を享受している現状は決して放置できるものではなく、今後、いかなる法的手段を講じてでも長男吉郎氏ほか益代氏、安郎氏の弟妹及び吉郎氏の長男佑人氏に対する責任追及を進める」という強い意志を見せ、さらに吉郎に対して監督機関が「病院グループの理事長という要職に在りながら、あまりにも無責任な振る舞いを続けるならば理事長職を降りるべき」という強い指導力を発揮すべきと要請している。

(写真:陳述書。藤牧秀恒は石川さゆりが設立したカラオケチェーンの本部長だった)

種子田益夫は令和元年10月13日に他界したが、それが父親の“遺言”でもあったのだろうが、直後に長男の吉郎以下益代、安郎の弟妹が揃って相続放棄の手続きを取るという有り得ない行動を取った。しかし実際にそれを実行した吉郎は社会的責任を放棄しているに等しく、そのような人間が病院グループの理事長に就く資格はない。同時に所管の厚労省や自治体が相続放棄という法的手段を悪用して平然としている吉郎を許しておくわけにはいかないとするのが必然ではないか。
そして、債権者にとってはもちろん、「他人に迷惑をかけない」という風習を社会的な美徳として重んじている多くの日本国民から見ても断じて許せるものではないのだ。吉郎以下益代、安郎の弟妹及び佑人も病院グループから上がる収益(前述したメディコム社の収益に係る地代家賃、給食やリネン等病院の運営に係るあらゆる事業)で、極めて豊かな生活を保証されており、債権者たちに対する債務の返済が十分に可能な状況にある。中でも吉郎は債権者たちからの差し押さえを逃れようとしてのことか、毎月数百万円もの賃料の賃貸マンションに住み続けている。一方で、吉郎を始め益代、安郎の弟妹も債権者に対する債務の返済を全く考えないという、あまりにも無責任極まりない対応に終始してきた。その行為は正に犯罪である。吉郎は医師の資格が無いにもかかわらず医療法第46条の但し書きを悪用した父益夫の裏工作により理事長に就任して現在に至っているだけでなく、吉郎のこれまでの対応は秘密裏に病院グループの収益から毎月6000万円という多額の機密費(裏金)を調達して父益夫に提供するという背任に問われ得る行為を長い間繰り返し、さらにコンプライアンスにも抵触する言動が多々あるなど、真っ当に病院グループを統括する資格は皆無と言っても過言ではない。

債権被害者の会は「このまま種子田一族による病院グループの経営が維持されれば、医療法が目的とする医療を受ける者の利益の保護及び良質かつ適切な医療を効率的に提供する体制の確保を図り、もって国民の健康の保持に寄与することが達成し得ないばかりか、告発を前提とした刑事事件に発展する可能性が高く、治療の最前線にある病院が混乱することは必至です。種子田一族による病院グループの私物化は明らかに背任を含む公序良俗違反であり、コンプライアンスに抵触しております」と吉郎が統括する病院グループの経営実態を監督機関に告発している。
監督機関は種子田一族が内包する収益至上主義という病院経営の歪みを解決させ、常仁会病院グループの経営を正常化させるために的確な監督指導を強化すべきである。

「巨額債権」の使い方で支援金案が浮上

種子田益夫は借りた物は返すという社会の最低のルールさえ守ろうとしなかった最悪の人間である。そして病院の権益を種子田家の資産と思って必死に守ってきた長男の吉郎も父益夫の轍を踏み続けてきた。
平成7年に表面化した安全・協和両信用組合を巡る特別背任事件以降、武蔵野信金、国民銀行、東京商銀信用組合等、平成15年頃までに金融機関を巡る事件が目白押しだった中で、種子田は逮捕起訴され、その後は有罪判決を受けて懲役に服するという時間を過ごしたが、種子田は本気で病院の権益を守るために顧問の関根栄郷弁護士を使って切り離しを仕掛けた。
種子田自身が買収し、運転資金を調達して作り上げた病院グループは医療法人常仁会を軸に晴緑会、明愛会、愛美会という4つの医療法人からなり、7つの病院を東京本部が統括するという形態になっている。本来ならば、それらの病院のオーナーは種子田益夫であるから、最低でも種子田の個人資産として認められなければならない。ところが、前述の金融機関を巡る事件で不良債権化した種子田への融資は種子田が有罪刑を受けても求償債権として残り、中でもRCC(債権回収機構)が種子田に徴求した債権は53億円にも上っていたことから、それによって病院グループが債権のカタに取られることを恐れた種子田は、種子田自身が統率するアイワグループ企業から病院グループを完全に切り離す作業を本格化させたとみられる。

昭和50年代から愛和グループで医療関連事業に携わり、資本参加していた太田薬品を中堅の医薬品会社にM&Aをさせたことで実績を上げた田中延和氏は、その直後から種子田に指示されて前述の東京本部(所属病院は4か所)の立ち上げを開始するとともに、これも種子田から長男吉郎の教育を指示されて、医療雑誌が企画したアメリカの医療業界の視察に1か月間出かけた。長男の吉郎は医学部や薬学部を卒業したわけでもなく(日大芸術学部は不正入学と言われる)、医療業界のことは何も知らないで父益夫に言われるまま立ち上げた東京本部の常務取締役に就いたにすぎず、あまりにも無謀な“就職”だったに違いない。
田中氏が述懐しているが、種子田が買収した病院はもちろん経営がおかしくなっていたから、新たに資金を継続的に投入しなければすぐにも破綻する。それ故、その資金調達や、その後の病院買収資金も全て種子田益夫に頼らざるを得なかったという。

種子田は表向きには事業家を装い、宮崎や広島、兵庫などに複数のゴルフ場を経営していたが、実態は火の車状態にあっただけでなく定員をはるかに上回る会員権をそれぞれのゴルフ場で販売したために、バブル景気が崩壊してゴルフ場経営が立ち行かなくなるとともに会員権相場も低迷が続く中で、種子田のゴルフ場の経営が安定化するはずはなかった。というより、種子田はウラで乱売した会員権の売り上げを毎日のように銀座のクラブに繰り出すなどして好き放題に消費していたのだ。銀座のクラブの経営者や店長たちの会話で種子田が有名にならないはずはなく、多い時には1か月で8億円も飲み代に落としたという話が瞬く間に広がった。
実際の種子田の日常は株式市場で仕手戦を仕掛ける相場師への資金融資でハイリスクハイリターンによる利益獲得を目指し、それを業とするほどにのめり込んでいたから、法的にも問題のある行動を繰り返していた。もちろん、そのような博打的な資金操作は事業というには程遠く、それゆえに種子田はその事実を世間には隠し、唯一経営が安定化し始めていた病院経営をさらに拡大するために周辺から借り受けた資金を集中的に投下していたのである。

T氏が種子田と知り合い、度重なる融資依頼に応えていったのは種子田がそんな状況にある頃だった。
種子田は安定化し始めた病院をエサにしてT氏とT氏の知人友人に詐欺を働き、40億円以上の金銭を騙し取った。
T氏が種子田と知り合った当初、種子田の融資依頼は他の債権者への返済の肩代わりだったが、その後も毎日のようにT氏の会社に押しかけ、借り入れを依頼する種子田にうんざりして融資を断ることも多かったT氏だったが、そのたびに種子田はT氏の目の前で土下座するや、涙ぐみながら「回ってきた手形を落とさなければ、会社が破綻してしまいます。何とか助けてください、お願いします」と言われ、T氏が応じるまでその姿勢を崩さなかった。
T氏も根負けして融資に応じていたが、種子田からの返済は無かったから限界は遠からずやってきた。すると、種子田が病院やゴルフ場を担保として提供すると言い出した。
「病院は、息子の吉郎に理事長をさせていますが、実際は私が経営者ですから、いつでも担保提供に応じられます」
と言って、T氏に加えT氏の知人友人にも話を持ちかけて融資をお願いしたいと言う。T氏は聞くだけならということで知人友人の声をかけたがその中の何人かの関係者が、病院が担保になるならばと言って種子田の話を聞くことになった。種子田はT氏と数人の関係者がいる前で、愛和病院が中核になって病院グループを作っていると言いながら、
「牛久の愛和病院は東邦大や東京女子医大、それから京都大学の応援を受けて医師を派遣してもらっていて、病床も500床前後もあり診療科目も充実しているので信用があります」
と饒舌になった。その後もT氏や関係者たちの前で「病院は息子に任せていますが、息子も病院は父からの預かり物なので、いつでも必要に応じてお返ししますと言っていますから、安心してください」と言ったことから、T氏と関係者たちは種子田の話を全て真に受けたわけではなかったが、融資を継続することに同意した。
しかし、種子田からの返済は一向にないばかりか、種子田が約束した病院の担保提供をT氏が促すと、種子田は「病院は公共性が高く、厚生省を始め地元の自治体や医師会、社旗保険庁などの監視が厳しいため、しばらく時間をください」と言ってなかなか応じず、次第にT氏の会社に来る足も遠のきだした。そして、前述したように金融機関巡る事件が続発し、種子田が警視庁や東京地検特捜部に逮捕されるという事態が相次いだのである。その間に種子田の側近たちがT氏の会社に状況の説明に訪れていたが、病院の担保提供については一切触れられる立場にはなったようで、また経理担当者が債務残高を計算した書面を毎月作成してT氏の会社に持参していたが、種子田がようやくT氏の前に姿を現したのは平成15年5月のことで、T氏が知人友人を巻き込んで融資を行ってからすでに10年近くが経っていた。種子田が経理担当者の作成した債務残高確認書に署名押印した際の債務残高は金利込みで368億円以上に膨らんでいた。

種子田は病院の担保提供について、自分からは一切話そうとしなかったため、T氏が確認を求めると、厚労省や地元自治体の許諾が得られず、すぐに担保提供はできないと言いつつ、「愛和病院は500億円以上の価値があるので、いざとなれば売却して返済します。まだ余裕がありますので引き続き融資をお願いします」と呆れ返るようなことを言う。T氏は黙って聞いていたが、すでに病院を売却してもらうしかないと決めていたようだ。
しかし、その後も種子田の身辺は事件がらみで慌ただしく、公判で有罪判決を受けて懲役に服することが決定したために、T氏はその後の数年間、種子田とじかに会って協議す場を作ることができなかった。
T氏は金融が本業ではない。そのために、知人や友人が困っていて金銭的な支援で解決するものであれば融資をするということだったから、担保も取らずに借用書だけで快く貸し付けるということが大半で、融資をしても相手に返済を得するということは無かった。種子田がT氏の人の好さに付け込み、知人友人まで撒きませて借り入れを頻発させ、揚げ句に病院を担保にすると嘘を言って金銭を騙し取ったのは、明らかな詐欺だった。

前述したように種子田からの返済が無い中で、T氏は融資に巻き込んだ知人友人への返済を継続していたが、そうした中で種子田に対する債権額が膨らむ一方にあることから、T氏は知人友人たちに病院を売却した際の返済金を原資にして、何か社会貢献に使うことを考えてどうかという提案をしてきたという。気候温暖化の影響で以前とは規模が違う自然災害に見舞われる事態が頻発しても国の救済策が及ばずに住む家がすぐに再建できなかったり、日常の生活を取り戻せない人たちが多数いることが災害発生のたびに報じられる。また今はコロナ禍で人々の生活が激変して、仕事を失ったために住居さえ確保でない人たちが急増しているという情報も報じられている。こうした状況を補助的に支援する組織を作り、何らかの活動に資する資金として考えてみてはどうかという。その話を聞いた知人友人ほか関係者たちが反対するわけもない。種子田に対する債務の問題が早期に解決去ることがT氏たちの間で合意されているという。

T氏が、種子田逃げ回ってばかりいて一向に具体的な進展がないことに業を煮やして、債権の一部を請求額とした訴訟を提起してしばらくすると、種子田が令和2年10月13日に病死していたことが判明した。80歳を超える高齢で会ったことからT氏もある程度予想していたことだったが、さらに長男の吉郎を筆頭に安郎と益代の弟妹が揃って相続放棄の手続きを取っていることも判明した。
T氏は吉郎に対して、種子田が約束した病院の担保提供や売却による返済の話を確認しようと努めたが、関根弁護士が邪魔をして吉郎に会わせようとせず、吉郎自身も理事長の座にアグラを書いているだけで父親の債務問題を解決する素振りさえ見せなかった。そのうえ、父益夫が死んだら相続放棄とは断じて許されることではない。
吉郎以下弟妹とその家族は病院の権益から上がる収益によって、存分に豊かな日常を確保している。決して父親の債務を返済する能力がはずはなかった。ただ、父益夫が生きている間にさまざまな障害を作ってきたから、何事もなかったように感じていただけである。借りた物は返すのが道理である。T氏と協議をして具体的な返済計画を立てるか、もしくは愛和総合病院ほかグループの病院を売却して生産するか、いずれにしても吉郎たち兄妹が今まで同様にのうのうと暮らす日々は父親の死とともに終わりを告げたという認識を持つことだ。(以下次号)

 

「種子田益夫」の巨額債務を長男吉郎に問う

第1章 種子田益夫の素顔

事件師と呼ばれた男が令和元年10月13日に亡くなった。種子田益夫という。昭和12年1月12日に宮崎県小林市に生まれ、享年82歳。死因は病死ということだが、2~3年ほど前には80歳を超えて臓器移植のために渡米まで予定していたようだから、種子田本人にはまだ死ぬ覚悟などなかったのだろう。

「種子田は2年前の夏に臓器移植の手術を受けると言ってアメリカに渡航する準備をしていた。ところが、突然それが中止になって、本人はえらく気落ちしていたが、予定されていたドナーに問題が起きたのではないかという話だった」と関係者は言う。その後も日本国内に留まり、恐らくは愛和病院グループのいずれかに入院し治療を受けていたものとみられる。関係者によると、種子田の死亡地は四国地方とのことだが、高知にはグループ内の高知総合リハビリテーション病院がある。この頃でも「種子田は現金で20億円以上を保有している」と種子田の秘書が知人に漏らしていたが、債務の返済に回す気など全くなかったという。

しかし、その死は誰にも知らされていなかったようで、いくつもの金融機関を舞台にして不正融資事件を起こし、さらにその事件では演歌歌手の石川さゆりまで巻き込んでいただけに芸能マスコミが放っておくはずはなかったが、訃報は一切流れなかった。家族や親族の誰もが相続を放棄する手続きを早々に取り、種子田益夫との関係を終わりにしてしまおうとした。これは、種子田益夫が数人の債権者から莫大な金を騙し取っていくつもの病院を買収して、病院を担保にするのが前提だった約束を破った揚げ句、益夫の一族もまたこぞって病院の権益を享受しながら負の債務については頬かむりしているもので、「詐欺の一族」と未来永劫にわたって言われても当然の振る舞いで、葬儀がどのように行われたのかさえ誰も知らないという徹底ぶりだったのである。

(写真:種子田吉郎。父益夫が買収した7カ所の病院理事長。益夫の巨額の債務に対し知らぬ存ぜぬの振りをしても、残された一族の徹底した相続放棄という手段で証明されている。吉郎が父益夫のやり方を十分に承知の上で相続放棄をすることは、吉郎、益代、安郎ほか家族は人間として社会的責任が大きな問題となることで関係者への謝罪及び説明責任があることは当然であり、このままでは3家族は未来永劫、世間がまともな人間と評価するはずがない)

そこまでして種子田の死を世間に隠し続けようとする家族や身内には理由があったかもしれないが、しかし、それはあまりにも自分たち一族が都合よく組み立てた常識はずれで悪党極まりないものだった。このようなやり方を地元市民や所管の自治体はじめ医師会、生労働省が絶対に許してはいけない。

今から四半世紀も前の平成6年頃、種子田はゴルフ場経営者としてアイワグループを率いていたが、それは飽くまでも表の顔に過ぎず、実際には株式市場で仕手戦を仕掛ける相場師への資金融資でハイリスク・ハイリターンの利益獲得を目指し、それを業とするほどにのめりこんでいた。宮崎県や兵庫県内に複数のゴルフ場があったが、いずれも赤字経営に苦しんでおり、また昭和50年代後半から本格化させた病院買収にも拍車をかけていたために、いくら金があっても足りないという状況にあった。そうした種子田が縋りついたのがT氏である。

種子田は、資金繰りではT氏に対して深刻な負担をかけさせた。日常的な運転資金に係るものと病院買収に係る資金繰りの双方で、特に病院買収に係る資金については種子田がすでに買収した病院(牛久愛和総合病院)を担保に入れると言い、その証として「今は長男吉郎を理事長にしているが、吉郎は『父からの預かり物で、いつでも父に返します』と言っています」と種子田が多くの債権者に何回も説明していたので、T氏は自分の知人友人にも声をかけ協力したのだ。ところが、T氏が「そろそろ担保設定をして欲しい」と言うと、種子田は、その約束を反故にして逃げ回った揚げ句に「病院は私には関係ないので、働いて返します」などと言い出し、T氏ほか融資に協力したT氏の知人友人を完全に裏切った、というより最初から完全に騙す積りの行為だった。

こうした吉郎以下家族、親族の身勝手な振る舞いには病院関係者からも非難の目が注がれ、常仁会グループ病院のトップにある吉郎に対して社会的責任を求める数多くの指摘がある。

冒頭にも挙げたように、種子田益夫の長男吉郎を筆頭とする家族親族は、種子田の死の何年も前より計画的に負の部分(巨額の債務)の相続放棄を悪徳弁護士の関根栄郷に指南させ、あらゆる手段を弄して病院という資産の処理を拒み、一族全員で詐欺的行為を構築させたが、まともな人間のやることではない。しかも病院は一般企業とは違って人の命を預かるところで、絶対にあってはならない犯罪なのである。

病院グループを統括してきた長男吉郎の社会的責任は極めて大きく、公共性の強い病院を私物化して一族の権益と捉える発想など決して社会に許容されるものではない。

(写真:種子田益夫相続関連相関図。種子田の兄弟姉妹は存命が一人のみで、益夫と明子の間の子供3人が相続放棄ではメインになっている。しかし、病院の権益を確保するために益夫が借りたまま放置してきた巨額債務については知らない、関係ないというのはあまりに無責任で身勝手な感覚としか言えず、非難されるのは当然だ。相続放棄は益夫の妹一人ほか吉郎、益代、安郎が中心となっているが、このままではそれぞれの家族構成を明記せざるを得ない)

人は死ぬ間際には周囲に迷惑をかけぬよう最大限の気を使い、家族は家族で後の処理をきちっとするというのが人間社会のルールであるはずだが、生前の種子田益夫にも、長男吉郎以下の家族親族にも、そうした発想は微塵もないようだ。ここでは、種子田益夫がT氏と知り合ってからいかに種子田益夫と吉郎の父子が横着三昧の関わり方をしていたか、その経緯をつぶさにたどってみることにする。

〇種子田の実像は虚業家だった

T氏が種子田に初めて会ったのは平成6年頃のことで、種子田が負っていた債務の一部約1億5000万円の弁済のための資金を貸し付けたのが始まりだったという。当時、種子田は「愛和グループ」を率いて複数のゴルフ場ほか多種多様な事業経営を手掛ける“実業家”として振る舞っていたが、実際に利益を出している事業はほとんどなく、経営は事実上“火の車”状態だったことが後日判明した。T氏はそうした種子田の実像を知らないまま、アイチの森下安道に頼まれ協力することにしたという。

この債務約1億5000万円(月3%の金利)について、種子田は約束の3か月という期限内に完済させたためにT氏は信用した模様だ。すると、種子田によるT氏への猛烈なアプローチが弁済の翌日から始まった。

「種子田からT氏の会社に電話がかかり、『ぜひ、お食事をご一緒したい』と、赤坂の『口悦』という料亭に招かれた。T氏は別の債権者との調整をしたことに種子田が感謝して食事に招かれたと思い気軽に誘いを受けた。そして、その夜は種子田から特段の話も無かったため、『すっかりご馳走になりました』と御礼を言って種子田氏と別れたそうだ。

ところが翌日から、種子田が連日電話を架けてきて、その度に『口悦』で食事を伴にすることが4日も続いた。そうなると、さすがに種子田には何か思惑があるのではないかとT氏は考えたが、種子田からは一向に具体的な話も無かったためT氏も敢えて聞かなかった」(関係者)

しかし、誘いが5日連続となればT氏も訝しく思うのは当然で、種子田から電話が入り、T氏は「口悦」に出向いたが、連日の誘いを理由も無く受けるわけにはいかず、「何か私にお話したいことがあるのではないか?」と尋ねることになった。すると、種子田がようやく本音を切り出したのだ。「7億円、何とかなりませんか?」

T氏が詳しい話を聞くと、種子田には別に強硬な債権者がいて、その調整で協力をお願いしたい、と胸の内を語った。そして「月に1割の金利は問題ないが、食事のたびに2000万円を持参するのが重荷で」と言う。種子田によれば、その債権者というのは暴力団で、「第一に暴力団とは、これを機に縁を切りたい」とも言う。T氏が「その7億円で全て間違いなく解決できるか?」と尋ねると、種子田は「はい、これで全て解決します」と答えた。

(写真:債務弁済契約公正証書。写真は額面15億円の公正証書だが、他に6000万円、1億2000万円、25億円の構成諸所が作成されている)

種子田は、返済は10カ月後になるが、その間の金利はまとめて天引きして欲しいとも言った。また金利は月に5分と種子田は提案したが、それでは金利が高過ぎて返済に窮することを心配したT氏が「もっと安くても良いので、月3分でも十分ですよ」と言うと、種子田は「では4分でお願いします」と言う。T氏がその場で計算すると、貸付金の額面が12億円ならば、月4分の金利を差し引いても手取りで7億円余りになると種子田に言ったが、種子田は「それで十分です。是非お願いします」と頼んだ。

前出の関係者によると、債権者は種子田とのやり取りから「これですべてが解決するなら」と考えて種子田の要望を承諾したが、これが後から考えれば大きな間違いだった。先にも触れた通り、種子田は実業家を装っていただけで、T氏から金を引き出すために、そんな言い方をしたに過ぎず、非常に場当たり的な対応だった。

種子田による債権者への猛烈なアプローチがさらに強まる中、種子田より依頼され12億円の融資を実行した直後からも連日のように債権者の会社に電話をかけてくるかと思えば、予約も無く唐突に訪ねてきて債権者に面会を求めるようになった。そして、次から次へと「手形が回ってきた」と言う理由でT氏に金策を頼むようになった。

「T氏は、自身の性格や生き様から、一旦口に出して約束したことは必ずやるということを信条としてきたから、種子田の融資の要望にも可能な限り応じていた。

とはいえ、種子田の金策の要求が五月雨式に繰り返され、正月の元日にも部下の大森という社員をT氏の自宅に使いに出すことさえあった。こうして、返済が一切ないところでエスカレートしていく種子田の要求に対して、さらなる融資に応じることが難しくなり、『これ以上の融資は無理だ』と伝えたことが何回もあったほどだ」と関係者はあきれ顔で言う。

T氏がそう言って断っても、種子田は怯みもせず「社長の信用ならば可能だから、他から引っ張って欲しい」と言って、債権者の友人たち数人の名前を出して依頼することさえあったという。友人たちの名前をどこで調べたのか、T氏は呆れて、とんでもないことを言う人だと思いながらも、その度に種子田が土下座して、涙を流しながら「何とか助けて下さい。お願いします」と頭を床に押し付けながら繰り返し懇願したため、T氏も折れて協力せざるを得なかったという。

〇返済が一切ないまま債務が巨額に

「種子田の人柄や考え方、過去の事業歴が一部でも分かっていれば、融資はもちろん付き合い方も変わっていた」と関係者が言うように、種子田の実態は、事業家としての顔などあくまで表面的なものに過ぎず、ゴルフ場の経営は赤字続きで火の車状態にあり、会員権は裏で5000人前後も募集と販売をしていたのが実情だった。しかも、種子田はその金を銀座等のクラブやバーなどで湯水のように散在していたのである。種子田はそうした事実を世間には隠し、唯一利益が出始めていた病院経営をさらに拡大するために周辺から借り受けた資金を集中的に投下していたのである。

しかも、種子田の日常は冒頭にも挙げたように株式市場で仕手戦を仕掛ける相場師への資金融資で利益獲得を目指し、それを業とするほどにのめり込んでいたから、法的にも問題のある行動を繰り返していた。その一つの例が平成14年2月に東京地検特捜部が着手した、志村化工(現エス・サイエンス)の株価操縦事件だった。さらにベンチャー企業の、株式市場での上場による資金調達にも関わり、企業の決算対策で不良債権を引き受けて粉飾に加担するようなことも平気で引き受ける人物であることが次々に判明していったのだ。

(写真:債務残高確認書。この一覧表はアイワコーポレーションの北条という経理担当責任者が作成し毎月持参していた。債務は平成15年現在で300億円を優に超えていたが、種子田には返済する意思は見られなかった)

種子田のまるで際限がないような金策にT氏は手を焼きつつも、遂には根負けして「自分の周辺関係者に相談するしかない」という考えを種子田に伝えたという。

すると、種子田は「融資を戴けるなら、どのような担保提供にも応じます」と言い、「愛和グループ」系列のゴルフ場(イタリア所在のゴルフ場も含まれていた)や病院を担保に提供すると持ち掛けてきた。T氏の何人もの友人たちも種子田の話を聞いている。種子田は「牛久愛和総合病院だけでも500億円以上の担保価値があります」とも公言していた。

その当時、種子田が経営するゴルフ場は宮崎、広島、兵庫などに複数か所あり、また病院も茨木県牛久市の「牛久愛和総合病院」を核に高知、宮崎、小倉、新潟など全国にある病院を相次いで買収している最中にあったようで、それならばT氏は周辺関係者に具体的な相談ができるかも知れないと思った。種子田が旺盛に病院を買収している事実、そして債権者から借り受けた資金を病院買収や設備の拡充に投下している事実を証言する者も種子田周辺や病院関係者など多数に及んでいる。

ちなみに牛久愛和総合病院は、設立当初は「牛久中央病院」で、その後、病院の名称が「牛久愛和病院」となったのは昭和61年のことで、この時以来、病院の経営は愛和グループを率いてきた種子田益夫が握ることになった。ところが、種子田は絶対的なオーナーとして病院に君臨しながら、長男の吉郎を理事長職に据えて、自分は決して表に出なかったのである。種子田には前科前歴(売春防止法違反(場所提供)、業務上過失傷害、法人税法違反)があった上に反社会的勢力の一員という烙印が押されていたから、理事長になりたくてもなれるものではなかった。

先に挙げた、常仁会が統括する全国の病院も、種子田が昭和50年代後半にアイワグループに設立した「アイワメディカル」という会社を軸にして製薬会社や病院との関係を深め、病院の買収という環境を作り始めて行った結果であった。

種子田による担保提供の話を踏まえ、債権者が知人に相談を持ち掛けると、何人かの関係者から「病院を担保に提供できるなら協力できるかも知れない」という返事があった。

(写真:念書。種子田益夫の部下が債務の担保にゴルフ場及び会員権を供する念書)

T氏が種子田に「本当に病院を担保に出来るのか?」と念を押して尋ねた。すると種子田は即座に「大丈夫です。息子(吉郎)に理事長をさせていますが、実際の経営者は私なので、担保に入れることは全く問題ありません」と確約したのである。ちなみに、種子田は「(病院の備品は)灰皿からコップの一つまで全て自分のものだ」と豪語していた。

しかし、その後も日増しに種子田への融資額が増える中で、債権者が担保提供の話を具体的に進めようとしたところ、種子田が「私の病院は、東邦医大、東京女子医大、京都大学医学部の応援や支持を受けて成り立っており、その担保価値は牛久の愛和総合病院だけでも500億円以上は十分にあります。しかし、茨城県を始め厚生省や社会保険庁の監視下にあるため、今すぐには担保にすることはできませんので時間を下さい」と言を翻したのである。

また一方で、種子田は「病院は私、種子田益夫のものであり、私が自由にできるのです。借り入れの担保はゴルフ場会社やアイワコーポレーションにしますが、私が借入をすることは病院が借入をし、病院が保証するのと同じと思って下さい。必ず、借りた金は病院で返します」とか「私の息子も『病院は父から預かっているものなので、いつでもお返しします』と言っているので、大丈夫です」などと疑う余地もないような言動を繰り返したことから、結果としてT氏が窓口となり、T氏の複数の知人を巻き込んだ格好で種子田への融資が継続されたという。

(写真:愛和コーポレーションが振り出した小切手、手形の一部。実際には常に繰り延べされ、額面が膨らむ一方だった)

しかし、T氏にとって最も許し難かったのは、「愛和グループ」の病院を事実上の担保にしてT氏やT氏の知人から巨額の融資を受けながら、種子田が取った行動は、長男の吉郎を病院の理事長に据えたまま、種子田と病院の関係を本格的に疎遠にして、T氏やT氏の多くの友人や知人から病院を守る態勢を構築していったことだった。これらのいきさつについて、吉郎は全て承知していることであって、父益夫の詐欺犯罪の共犯にも相当している行為だった。

種子田が融資を依頼した際に「病院を担保に供することはできる」と言明したことから、いざその実行を種子田に促すと、病院の公共性を盾に「担保提供はすぐには難しい」と言い出し、さらに時間が経過すると、「病院は自分のものではないので、これから働いて返します」と開き直った返答に終始していったのである。

「種子田益夫」の巨額債務を長男吉郎に問う

第2章 病院私物化の裏工作

種子田は平成9年に武蔵野信用金庫から受けた融資を巡る背任事件が表面化して警視庁に逮捕される事態が起きた。東京地裁は平成11年6月28日に無罪判決を言い渡したが、控訴審ではそれを破棄して有罪(懲役1年6月)の逆転判決となった。種子田は上告したが、その最中の平成13年10月5日に東京商銀信用組合を巡る不正融資事件が表面化して東京地検に逮捕される事態が起きた。さらに加えて国民銀行が平成12年に経営破たんしたが、その最大の要因が種子田に対する90億円を上回る不正融資だった事実も明らかになった。

この融資には石川さゆりの個人事務所が立ち上げたカラオケボックス運営会社「カミパレス(ドレミファクラブ)」に対する巨額の融資が発覚し、石川さゆりの事業を応援していたのが種子田だったことから、一躍マスコミでも取り上げられることになった。国民銀行の融資で種子田が逮捕されることはなかったが、同行の不良債権を引き継いだ整理回収機構が種子田と石川に対し損害賠償請求訴訟を起こし、最終的に種子田には52億円、石川については10億円の支払命令が下された。ちなみに東京商銀信用組合事件で種子田は平成16年2月、懲役3年6月の判決が下され刑に服した。その後、石川さゆりは返済を続けてきた模様だが(一部には今も返済を続けているという話はある)、それに反して種子田は返済を滞らせているという。そのことだけでも種子田の人間性が分かる。石川さゆりの債務は、元はと言えば種子田が作ったものだ。種子田は生前中から石川さゆりに対しても周囲の関係者に対しても責任を果たそうとしなかった。また長男吉郎や家族は病院の権益を守ることに執着するばかりで、父益夫の負の遺産について責任ある対応が求められるはずであるが、父益夫が迷惑をかけ続けた周囲の関係者にやるべきことをやるという言動が一切見られない。常に拝金的な考えしか持たないから、そういう発想になるのだろうが、長男吉郎を筆頭に実に浅ましい家族としか言いようが無い。

(写真:陳述書。藤牧秀恒は石川さゆりが設立したカラオケチェーンの本部長だった)

こうした種子田を巡る刑事事件が頻発したことで、T氏による貸金の回収がままならない状態が確実に数年間は続いた。

種子田が保釈された後の平成15年5月15日、T氏は種子田の来訪を受け、その場で債務の確認を行ったところ、種子田は否も応も無く認めたという。

「種子田が拘留されたり保釈されても、T氏の前に姿を現すことはほとんどなかったが、それに代わって種子田の部下たちや経理の社員が毎月T氏の下を訪ねて、手形の書き換えや債務確認が行われた。しかし、彼らが返済原資に挙げるのはゴルフ場の売却や会員権であって、病院には一切触れなかった。病院の売却については『社長、一度息子(吉郎)と会って下さい』という話が種子田の筆頭の側近で、病院事業の立役者だった田中延和氏から出たが、種子田の当時の代理人だった関根栄郷弁護士に止められて実現しなかった。ただし、息子(吉郎)は田中氏から言われ、その後、T氏の代表に電話を架けてきたが、卑しくも病院の理事長とは思えないぞんざいな言葉遣いで『社長さんの関係者は金持ちが多いので、そちらで処理して下さい』と言って、一方的に電話を切ってしまったという。もちろん吉郎から謝罪の言葉はなく、その後も一切電話が架かってくることはなかった」(関係者)

種子田は若いころから反社会的勢力との親密関係が指摘され、社会的にはコンプライアンス上で問題ある人物とされてきたのはもちろんだが、吉郎もまた実父益夫に代わって暴力団関係の債権者に金利を支払っていた事実があるだけに、今後、さまざまな事実が明確になれば実父益夫と同様にコンプライアンス上の問題が浮上すると思われる。

弁護士の関根栄郷は、それまで種子田の委任を受けた弁護団が15人ほどいた中で、種子田の言動や暴力団との深い関係、付き合い方に嫌気して相次いで辞任していったが、唯一親密な関係を続けていた。関根も種子田と二人で銀座のクラブを飲み歩いていたが、時にT氏と鉢合わせをすると、関根と種子田が飛んできて、『できるだけ早めに返済します』と挨拶する場面が何回もあったという。T氏がクラブの社長たちから聞いた話では、銀座で一番金を落とす客は誰か? という話があり、種子田が突出してNO.1であり、多いときでは1ヶ月で8億円にもなったという。確かに種子田の銀座での金の使いっぷりは有名だったかもしれないが、好みの女性を口説くためだけに店に姿を見せていたそうで、決して褒められる飲み方ではなかったとも言う。「息子(吉郎)も父親同様に行儀が良いとは言えない」とは吉郎を知る店長やマネジャー、多くのホステスたちの証言である。

(写真:陳述書。村山良介氏は牛久愛和総合病院の院長として、種子田が同病院のオーナーであることを証言)

だが、種子田が銀座で落とす多額の金の出所が、ゴルフ場の会員権の乱売で得た事実上の裏金であり、また吉郎が管理している複数の病院からの“上納金”でもあったと言われており、これはゴルフ場や病院にとっては明らかな背任行為で刑事事件である。

種子田がオーナーとして病院を支配し続けてきた事実は牛久愛和総合病院の初代院長だった故村井良介を始め、日本医師会の参与だった檜田仁、東邦大学医学部教授だった永田勝太郎などが種子田の依頼に基づいて病院の拡充や医師の派遣等で尽力した事実を「陳述書」にもまとめていることでも明かである。また種子田が牛久中央病院を買収した後に牛久愛和総合病院と名を変えた当時、医師の資格が無ければ理事長には就けなかったにもかかわらず、何の資格もない吉郎(日本大学芸術学部卒)が牛久愛和総合病院ほか傘下に収めた全国の病院でも理事長職に就いた背景には「地元茨城県出身で自民党の厚労族の重鎮たる丹羽雄哉衆院議員が種子田氏から数千万円の献金を受けて厚生省に強く働きかけた結果だった、という指摘があった」(関係者)という。「種子田が病院のオーナーである事実は病院職員の隅々まで知れ渡っていた事実で、決して揺らぐことはない」(関係者)

(写真:日本医師会の桧田仁氏の陳述書)

「私が病院のオーナーであることに間違いはないので、いざとなったら病院を売ってでも必ず返します」と種子田は言い続けたが、卑劣にも掌を返すような豹変ぶりでその言葉を翻したことから返済は滞るばかりだった。

T氏による種子田への可能な限りの協力がなされたにもかかわらず、T氏の周囲からは耳を疑うような話が数多く聞こえてきたという。関係者によると、

(写真:陳述書。永田勝太郎氏は種子田に頼まれ東邦大学医学部の医師を多数常仁会グループ病院に派遣した)

「T氏が種子田へ融資をした際、金利分を先取りしたのは額面12億円の時の1回だけで、その後は大半が月2%だったのに、種子田は周囲に『金利をいつもまとめて引かれて手取りが殆どない』と語ったそうだが、そもそも金利先取りの話は種子田が言ったことで、しかも一度だけだった。T氏から言ったことではなかった。そして金利先取りの話は、すべて種子田が返済を先送りするために頼んできたことだった」

また、融資が実行されてから3年4年という時間が経つ中で、返済が殆ど実行されなかったことに業を煮やしたTが困惑しながら確認を求めたところ、種子田が「(平成10年の)年末までに最低20億円を返済する」と約束しながら、実際には1億円しか持参しないことがあった。それ故、T氏が多少は語気を荒げて「何だ、1億円ですか!?」と言った場面があったという。ところが、これについても、種子田は20億円の返済約束を隠して「1億円を持って行ったのに、『何だ、たった1億円か』と言われた」と周囲に愚痴をこぼしたという。

T氏にしてみれば、何年も返済を待たされ、ようやくうち20億円の支払を約束できたというところに、持参したのが1億円だったら、誰だって文句を言うのは当たり前のことである。

さらに領収書についても、T氏は種子田から「石原という名前でお願いします」という依頼があったため、全て「石原」名で領収書を発行していたというが、種子田は「返金しても受領書を出してくれない」などと、とんでもない話を周囲にしていたらしい。これでは、話を聞いた人たちが誤解をするに違いない。T氏の耳に入った話は以上のような次第だが、種子田は他にもいくつもの作り話をしていた。

長い間逃げ回っていた種子田が平成22年12月9日、ようやくT氏の前に姿を現した。T氏は最初からのいきさつの全てを話し、「違っているところがあれば、些細なことでも全て言って下さい」と問い質した。すると、種子田は「社長のおっしゃる通りです。済みませんでした」と、ひたすら謝っていた。

しかし、そうした状況下でも種子田はその時「ところで社長、2500万円をお借りできませんか?」と真顔で尋ねたという。

「T氏もこれには本当に呆れ果てたが、種子田氏はT氏の知人にも声をかけ『手数料を払うから社長を説得して』と依頼していたという話が聞こえて来た時には、さすがにT氏も怒りを露わにしていた」(関係者)

種子田の約束や謝罪の言動がいかに言葉だけに過ぎないかがよく分かる。

また平成22年12月9日の面談の際にも、T氏が年末までに具体的な返済計画の提出を求めると、種子田は「年明けの1月にして下さい」と言って態度を明らかにしないまま帰って行ったが、それ以後は一切連絡が取れなくなり、種子田からの音信も途絶えてしまったという。

〇競売にかかった父益夫の自宅を長男吉郎が買収

種子田が病院を担保にすると言って融資を引き出したにもかかわらず、いざとなると、公共性を盾に担保設定を拒んだり、息子が理事長であって種子田自身は関与していないという主張は、どのように考えても罷り通るものではない。

関係者によると、「T氏は以前、腓骨神経麻痺症の症状が出て、種子田氏に請われるまま牛久愛和総合病院に1か月以上入院したことがあった。その時の経験から言えば、『オーナー室』という表札のかかった特別室のような広さと設備を整えた部屋があったが一度も使用された様子が無く、また院長以下全職員が種子田益夫氏をオーナーと呼び、種子田氏の客としてT氏を最上級でもてなした、ということだった。

種子田が病院経営に乗り出してから、T氏から借りた金でいくつもの病院を買収し、力のある医師会や国会議員に頼んで施設の拡充を図り、医師の資格もない吉郎の理事長在任期間を延ばしてきた事実は病院関係者の誰もが知っていて証言している」

種子田が逮捕された直後の平成14年1月、他の暴力団関係の債権者がゴルフ場や種子田の東京と宮崎にある自宅を売却したり競売にかける事態が起きた。そのうち宮崎市内の和風邸宅の競売では、種子田のダミーと見られる「汗牛社」が一旦は自己競落した後の平成17年3月に長男吉郎が個人名義により売買で取得し、さらに同年12月に医療法人晴緑会(高知総合リハビリテーション病院と宮崎医療センター病院を経営)に転売したという事実は、まさに病院グループ及び病院グループのトップたる長男吉郎が種子田の支配下にあることを明確に示しているのではないか。なお、汗牛社が種子田のダミー会社であることは、東京商銀信用組合が事件直後にこの和風邸宅に競売の申立をし、種子田(汗牛社)が慌てて資金を調達して自己競落した事実からも明確だった。

そのようにみると、種子田が主張して止まない「病院に関与していない」という言葉は絵空事に過ぎず、「病院」という財産を密かに親族名義で蓄え、T氏が手を出せないような構図を構築してきたことに他ならない。そして、法律を悪用して財産を隠匿し、原告関係の多くの債権者を泣かせ続けている行為を決して許容してはならない。私的財産の“本丸”である病院を息子の吉郎が任せられているのであれば、吉郎は当然、父益夫の負の部分も引き継がなければ不当と言わざるを得ない。

「種子田の側近だった田中(延和)や梶岡が辞めるときに、T氏に挨拶に来たが、種子田には本当に悪すぎてついていけない、T氏の前でも何度も涙を流して借金を懇願していたが、それも全てジェスチャーで帰りはいつも『してやったりの苦笑いであった』と言っていた」(関係者)

田中も梶岡も種子田の借金の返済でT氏たちに言い訳ばかりを言わされていたが、種子田は側近ですら庇う気にもなれないほど悪すぎるという。種子田は灰皿や食器一つを割っても、「これは、全部、自分のものだ」と言って怒鳴りつけたが、500億円以上の債務を負っていながら責任を果たさず、吉郎の支配下に置くようなやり方は決して許されることではなかった。まるで人を騙すことが生き甲斐になっているのではないかと思われるほど、種子田は牛久愛和総合病院をエサにして債権者たちを騙し、病院という事実上の私的な蓄財を吉郎に託してきた。田中は種子田益夫からもらった高級時計を吉郎が理事長に就いた後に返したという。また、どれだけ貢献したか分からないほど頑張った田中への退職金は、たったの100万円だったという。

「種子田のボディガード兼運転手だった男に種子田が収監される前に『預かっておいてくれ』と言って頼んだ段ボール箱10数箱を、密かにT氏の会社に運んできたことがあった。男にしてみると、種子田のT氏に対する対応が余りに悪過ぎて、平気で人を騙し、種子田本人が実業と嘯いたゴルフ場経営は破綻寸前で担保価値など無いのに、価値があるかのごとく振る舞いT氏やT氏の知人を騙す行為を繰り返してきた。しかも、それでいてT氏やT氏の知人から集めた金を病院の買収や設備の拡充で積極的に集中的に使いながら、これは私的財産として誰にも渡さないよう工作する、などといったやり方が腹に据えかねたということだった。

段ボール箱がT氏の手に渡ったということで、種子田の後ろ盾になっていた日本有数の暴力団山口組芳菱会のNO.2がそれを返せと言ってT氏に対し『タマを取るぞ!』という脅しの電話を何回もかけてきた。T氏にそんな脅しが直接入ったことが数回はあった模様だが、その後は芳菱会の会長(故瀧澤孝)自身が直接面会してくるようになり、T氏は外出で会社を不在にすることが多かったことから部長が対応したのだが、部長によると瀧澤は『ワシは持病があって命は長くないので、命があるうちは種子田から頼まれればどうしても関わらざるを得ない』と言ったという。瀧澤は、言葉は丁寧だが、やはりトップとしての迫力があったようだ。次いで瀧澤は『種子田だって少しは返しているのだろう?』と尋ねたそうだが、部長が『最初の一部だけで、その後は一切ありません』と答えると、しばらく黙った後に『種子田のやっていることは、正直ワシも許せんと思ったことが何回もある。吉郎は父親が病院を利用して債権者を騙していることを良く知っていて知らん振りを通している。種子田自身がゴルフ場を担保にしながら、病院も事実上の担保になっていて、いつでも必要であればお返しすると吉郎が明言しているなどと言って時間を引き延ばしてきた。吉郎もそれに同調していたので、父親以上に悪質だ』と言ったので、部長は意外に思ったそうだ。そして、瀧澤は『ワシの用件を社長に伝えてくれ。ワシの死後は種子田に全額請求していいから』と言って帰って行った。その後も瀧澤は事前に連絡もなく会社に現れ、そのたびに部長が対応していた。社長の意を受けた部長もまた余計な話はせず、黙って瀧澤の話を聞いた後に『社長に伝えます』という返事をして終わるという面談が何回もあった。そして『様子を見ます』という社長の言葉を部長が伝えると、それが面談の最後となった。瀧澤は部長に草津の別荘の権利証(当時約1300万円の評価)を渡した。部長が『これは受け取れません』と返したが、瀧澤は『受け取ってくれ。これは気持ちだから』と言って権利証を置いたまま帰った。以後、瀧澤が来ることはなかったそうだ」

T氏に対して、病院の一部でも売却して返済原資を作るという話をすれば、問題は支障も無く解決するという簡単なことが種子田の発想には全く無いから、反社会的勢力を使ってまで、T氏を屈服させようとしたに違いない。

しかし、種子田は瀧沢に対してもひどい対応をした。5年ほど前の平成27年5月に種子田が「瀧沢に恐喝された」と警視庁に被害届を出したのだ。山口組元最高顧問の故瀧沢孝(芳菱会元総長)が、永らく種子田の“後見役”を名乗り、種子田がトラブルを起こすたびにその処理をしてきた人物であったにもかかわらず、種子田は平然と被害届を出した。瀧沢は警視庁の調べに対して「ガセネタだ」と容疑を否認したというが、種子田が身勝手にも瀧沢を排除するために捜査の現場と何らかの取引をしたのではないかという憶測すら飛び交った。しかし、それよりも種子田自身が瀧沢の協力でどれほど好き放題の振る舞いをしても身の安全を保証されてきた、というお互いの関係を一切無視して取った行動こそ、種子田の独りよがりの本性が表れていると言っても過言ではない。そして、吉郎も父益夫の血を色濃く引き継いでいる。

「種子田益夫」の巨額債務を長男吉郎に問う

第3章 長男吉郎に問われる社会的責任

吉郎が中核となる牛久愛和総合病院の理事長に就いたのは日本大学(芸術学部)を卒業して間もなくのことで、もちろん当時は医師の資格が無ければおいそれと理事長に就任することはできなかったし、またその後、父益夫が全国7施設の病院を買収していくたびに吉郎が理事長に就いていったが、吉郎に病院を相次いで買収する財源があった訳でもなかった。そのような父益夫の“ダミー”に過ぎない吉郎が理事長としての社会的責任をどこまで自覚して果たしてきたのかは大きな疑問である。

吉郎にとって最大の疑惑は前述したとおり、昭和50年代後半から同60年代初めにかけて医師の資格が無ければ理事長には就任できなかった課題をどうやってクリアーできたのか、という点である。つまり吉郎が理事長に就いたのは“ウラ口”であり、そのウラ口は多分に違法性の高い特殊なものだったということになる。

(写真:陳述書。田中延和氏は種子田の側近で、長男吉郎を理事長にするために尽力したが、種子田は田中の功績に応えなかった)

種子田の側近だった田中延和が「(吉郎が)大学を卒業したのを機に一ヶ月間アメリカの医療状況を見るためにツアーに参加した」と記しているように、それが吉郎にとっては病院経営の始まりだった。医師の資格はないから、当然知識や情報も積み上がらず、経験とノウハウも無いまま「大阪、高知、九州、牛久の4ヶ所の病院をコントロールすべく東京本部を創り」、田中が専務、吉郎が常務に就いて、全て種子田益夫の指示に基づいて具体的な方針を実行し運営に当たっていたという。種子田が全国の病院を買収し、グループを形成していく中で東京本部は次第に拡充していくが、吉郎はそこにアグラをかいていたに過ぎず、全ては父益夫の指示によって側近の田中が吉郎のためにお膳立てをしたのが実態だった。そして、種子田が刑事事件で有罪となり刑務所に服役すると、これも種子田の指示に基づいて病院グループは積極的に種子田のアイワグループとは一線を画していったという。

しかし、病院の買収や施設の拡充が種子田の巨額債務によって進められ、今日を迎えていることは明白だから、その事実を無視して病院の経営だけを切り離した状況を維持しようとすること自体に大きな問題がある。なお、田中は一歩も二歩も下がったような口ぶりで語っているが、実際には田中がいなければ、アイワグループも病院も現在の形にはならなかった。

〇無礼極まりなかった吉郎の電話応答

T氏は令和元年7月、種子田に対して貸金5億円の返還を求める訴訟を東京地裁に起こした。

関係者によると「この5億円は貸金のほんの一部に過ぎず、種子田氏への最初の融資が発生した平成6年以降、貸金が返済されたのは2回程度、それも債権者に信用を植え付けることを目的としたもので、その後の融資では元金はおろか金利の支払もされずに累積していった結果として、債権の総額が平成15年5月15日の時点で368億円に達していた」と言うから、想像を絶するような金額である。それ故、関係者も「今年(令和元年)現在で債権総額の全額を請求することは可能だが、元金の一部のみを請求することにした」と言う。種子田のやっていることは詐欺も同然の手口で満ちている。

種子田の長男、吉郎は各病院の理事長として、例えば「患者様の意思を尊重し生命の尊厳とプライバシーを守り……」(宮崎医療センター病院)とスローガンを謳って、一人ひとりの患者に寄り添った医療を目指していると強調するが、当の吉郎自身がT氏たちに対してはまるで逆の対応をしているのだ。そのように明らかな二面性を持った生き方を大学卒業から今日まで約30年以上も続けてきた吉郎並びに表向き吉郎が率いてきた病院グループを、仮に一人の患者としてどこまで信用、信頼して命を預けることができるものだろうか? 極めて大きな疑問である。

「父親が作った巨額の負債は、病院を買収するための財源に充てられたもので、債権者からすると貸金が病院に化けたと言わざるを得ない。吉郎が父益夫の巨額の債務を『私には関係ない』と言い続けること自体あまりに身勝手すぎ、父益夫の債権者を始めとする関係者と真摯に向き合う責任を負うのは当然のことではないか」と関係者が言うように、いつまでも吉郎の姿勢が通るはずは無く、また周囲もそれを許して見過ごすことなどあってはならない。

T氏にとって、種子田に対する債権が発生してから訴訟を起こすまでにかなり時間が空いているが、それは前に触れたとおり、ただでさえ返済の話になると部下をT氏のところに差し向けて自分は逃げ回っていたのに加えて、分かっているだけでも3つの金融機関を破綻に追い込むような不正融資を受けて刑事事件となり、数年間は事実上本人と接触が出来ない状況にあったからだった。また、種子田の背後に控える反社会的勢力の存在も大きく影響したと言っても過言ではない。

病院の買収資金の調達で、種子田益夫はT氏たちに「病院を売却してでも返済を実行します」と約束してきた。「息子の吉郎は理事長に就いているが、本人も『いつでも病院をお返しします』と言っていますので、間違いありません」とまで言っていたが、T氏がそれを実行させようとする段になると、種子田はのらりくらりと曖昧な態度を取り続け、所在を不明にし続けた。そして、T氏が種子田に会った平成22年12月には「今後は働いて返します」とまで言い出したのだ。そのような経緯がありながら、吉郎は父親の債権債務には一切関係はないし関知もしないという横着な対応を取り続けてきた。吉郎が債務は関係ないというのであれば、すぐにも理事長の職を辞するべきだ。吉郎が自分の稼いだ金で病院を買収したというのであれば、資金の説明をするべきだ。

種子田の側近だった田中延和が、吉郎を説得してT氏に電話を架けさせたことがあったが、その際に吉郎は「社長も周囲の方もお金持ちばかりだから、そちらで何とかしてください」と言ってすぐに電話を切ったのである。父益夫が多額の債務を返さず長い年月が過ぎている事実、T氏たちから融資を受けるに際して病院を担保にすると言ったうえで売却で返済原資を作るとまで言っていた事実を知りながら、そのT氏たちに対して発する言葉ではない。しかも一方的に電話を切っておいて、T氏がかけ直しても吉郎は電話に出なかった。それだけでも吉郎に社会性が全くないことがよく分かる。

医師の資格もない吉郎が、どうして理事長に就き、現在に至っているのか。自力で病院を買収することもできない吉郎が、何故、続々と病院をグループの傘下に収め経営を維持することができたのか。そうしたいくつもの疑問に、吉郎を始め親族一同には答える義務があるはずで、父益夫の債務は一切関係ないという言い草は筋の通らないものだ。

種子田が死亡した今、それで種子田がしでかした不始末が終結する、と吉郎は胸を撫で下ろしているかもしれないが、何の責任も果たしていないところで、逃げ得が許されるはずはない。吉郎が愛和病院グループの理事長に就いてきたのは飽くまで父益夫の指示によるもので吉郎は完全なダミーであって、吉郎自身が自分の力で資金を調達して買収し、経営を維持してきた病院は一つもないということだ。

吉郎自身が病院の収入から毎月6000万円という大金を父益夫に提供してきた事実、父益夫の債務に係る金利等の返済で吉郎自身が反社会的勢力と接触した事実、そして何より、大学を卒業して間もなくの時期から、父益夫が買収した病院グループを束ねる「東京本部」の中枢に収まり理事長職に就いていった事実等、挙げていけばキリがないほどに吉郎が父益夫のダミーであるという実態が浮かび上がってくる。吉郎は、公の身分や肩書を持ち得なかった父益夫の代わりに永らく理事長に就いてきた故に、重大な責任があるということなのだ。

こうした吉郎を巡る病院グループの私物化問題(理事長在任問題)については、吉郎個人の問題を含め市民団体やオンブズマンが高い関心を寄せている中で、常仁会グループの全病院に係る各自治体への照会や告発等さまざまに検討されているという。何よりも種子田が存命中に病院を担保にしなかった事実は、常仁会グループの各病院に巨額の負債が隠れて存在していることを意味しており、事と次第によっては病院経営そのものに影響が出るということなのだ。

長男吉郎は、父益夫のダミーとして常仁会グループの東京本部を統括し、牛久愛和総合病院を始め各病院の理事長を務める中で、恣意的に関係を遮断する手段を父益夫と共に講じてきた。それは正に悪質そのもので、病院グループの権益を享受しておいて父益夫が負ってきた債務は何も関係ないとする対応は許されることではなく、吉郎は社会的な責任を負う立場にある。相続放棄についても、全く支払い能力が無いわけではなく、それどころか吉郎以下家族や身内は病院に関わってかなり高額の報酬を取って立派な家に住んでいるのが現実である。そうであれば、父益夫の負の遺産をしっかり清算したうえで、必要ならば相続放棄をするのが筋ではないかと思われる。それをしないでのうのうと暮らしているというのは誰に聞いても非難すべきことというのは明らかだ。常仁会グループの病院には、そうした極めて不健全で深刻な問題があるという点に市民団体もオンブズマンも着目しているのだ。

今後、父益夫がいなくても吉郎が理事長職を継続していくことは可能なのか。冒頭にも記したように、吉郎は周到に準備を進めているのかもしれないが、自らの責任と義務を真っ当に果たさぬ限り、未来永劫にわたって吉郎自身や一族(家族や身内)の社会的信用が回復することは今後も絶対にあってはならない。