第10章 悪事の終結に向けて
第4章でも触れたように西義輝が自殺したのは、2010年2月のことだった。正確な日付は不明だが、関係者に最後に郵送された手紙の消印を見ると2月9日だったことから、その直後と思われるが、「遺書」の性格を持つ書面は、西が崇拝して止まなかった「社長」(A氏)を始め、鈴木義彦、青田光市、茂庭進のほかに鈴木の実父徳太郎にも宛てていたようである。西が自殺した後に、会社のデスクマットの下にあった大量の文書(コピー)を発見して分かった。
鈴木宛の書面は18枚からの長文で、鈴木が逮捕された親和銀行事件の、今まで語られていなかった“秘話”に始まり、株取引のきっかけとなった宝林株の取得や、鈴木による利益金の支配に西が抵抗できなかったこと、金銭欲に憑りつかれた鈴木の人間性等を生々しく描いている。
鈴木は「タカラブネ株20億円を担保に新規に60億円分のタカラブネ株を購入できる」と言って山内興産の末吉にウソの情報を流し、末吉が保有していた20億円分の株券を預かることに成功したが、実際にはタカラブネ株を売却してしまい、資金を使い果たした後に西に「FR社の第三者割当増資をやるので、かならず返済をするから」と言って、西にとっては「一番大事な金主であり、いつも弟のように大事にしていただいていた社長を紹介する」ことになった。鈴木は、西のバックに資金力のある人物がいることを日ごろからの会話で聞き知っていて、計画的に紹介させた。それが、そもそも西がA氏に鈴木を紹介するきっかけとなった。
「貴殿は借りるお金について、私の保証が入っている事を分かった上で行っている。私と社長の性格をよく理解した上での、このようなやり方には、貴殿の狡る賢しこさの一部がよく分かるが、私は今になってはそれを解決する方法がないため、非常に残念に思う」
「平成10年5月末より(略)貴殿は逮捕される日まで周囲を騙してきた。出頭する1時間前に私の家内に電話をし、金銭的な協力や後の事を西会長によろしく頼むことを伝え、私にその後、電話をし、弁護士に対する着手金の支払い1000万円やFR社に来る債権者に対する対応などを頼んできた。(略)貴殿の愛人で子供もいるサラ女氏(史)の三田のマンションにいた時も、毎月、生活費として50~60万円を届けながら、私が必ず大きな仕事をする用意を考えているから頑張っていこうと励ました日々だったと思う。後に分かったことだが、貴殿は逮捕前にサラ女史に3000万円のお金を預けていたと聞いて、私は自分の馬鹿さ加減に呆れてしまった」
西は鈴木のことを「どんな時でも、自分が弱い立場にいる時、あらゆる事を言ってでも助けを乞うが、自分が強い立場になった時には、まず一番重要な立場にいて、貴殿のパートナーに近い人間や色々貴殿の秘密を知っている人間を追い落とし、弱くさせながら自分の思うようにコントロールするやり方をずっとしてきている」と断じているが、それが宝林株に始まる合意書に基づいた株取引とそれで得た巨額の利益を独り占めしていくに当たって、西を最大限に利用して合意書の約束を無かったことにしようとしたり、A氏と鈴木の関係を疎遠にしようと謀ったりした一連の行状に如実に表れている。
そして、西が香港で事件に巻き込まれて以降、鈴木の強欲はさらに激しさを増し、A氏の人格や社会的信用を極端に貶めてでも金を守ろうとした。青田光市と平林英昭を使って、合意書に基づいた株取引は無かった、和解書に署名したのはA氏と西に強迫強要されたからだった等、あらゆるウソを重ねて交渉を決裂させ、A氏が止むを得ず裁判を起こすと、長谷川がさらに嘘を倍加させてA氏が反社会的勢力と密接関係にあり、暴力団関係者を背後の金主元にしたプロの金融業者であるかのような心証を裁判官たちに強烈にうえつけようとした。青田や平林、長谷川達にどれほど裏金での報酬が約束されていたのかは不明だが、法の番人として弁護士の資格を持つ平林や長谷川の鈴木への関わりは、明らかに人としてやってはいけない手段を使った罪は極めて重い。
これまでに何度も繰り返し述べてきているように、鈴木を始めとして青田、平林、そして長谷川達が犯した罪はそれぞれ自分自身だけの問題ではなく、家族や身内にも影響が及ぶ。刑事罰を科される人間の社会的責任はそれほど重いということなのだ。
【系 譜】
この事件は、20年前の平成11年春、鈴木義彦と西義輝による大規模な仕手戦に端を発していた。その4年ほど前の平成7年に西と出会った鈴木が、経営するエフアールの資金繰りを相談。その結果、A氏と西、鈴木が会うことになる。それから間もなく、親和銀行不正事件で鈴木が逮捕・起訴(平成12年に懲役3年、執行猶予4年の有罪判決)され、半年後に鈴木が保釈されると、西が鈴木の再起を手助けすることを口実に、A氏へ株投資プロジェクトの提案をする。3者での株式投資プロジェクトに関する「合意書」が作成された。
最初に仕掛けた銘柄(宝林)で160億円以上の純利益が上がったが、しかし、A氏への経過報告義務違反と利益金額の虚偽報告で、鈴木と西の裏切り行為が始まる。宝林に始まる仕手戦での裏切りは、最初からの計画だと思わざるを得ない。以下、主だった関連事実を時系列で示す。
1978.04 鈴木義彦が宝飾品の卸売・販売業「富士流通」を創業。
1984. 業態を小売主体に転換し、海外ブランドの時計、バッグを扱う。
1989. 社名を「エフアール」に変更。鈴木を知る関係者によると「鈴木と天野は若いころに暴走族仲間だった。会社の幹部は全て友達で固めていたので、鈴木社長の決定は絶対だった」と指摘する。
1991. 株式を店頭公開。
1992. 9月期の売上高268億3200万円を計上。粉飾決算だった。
1995. 西義輝と鈴木義彦が知り合う。鈴木がエフアールと鈴木個人の資金繰りで西に相談。西が旧知の田中森一弁護士を親和銀行顧問に据え、結果、鈴木は新たな融資を引き出した。
1997. 8月頃、西が鈴木をA氏に紹介。間もなく鈴木への貸し付けが始まり、短期間で手形により約17億円、借用書により3億円と8000万円が貸し付けられた。加えて、鈴木はピンクダイヤモンドと絵画を持ち込み、A氏は言い値の3億円で買ってあげた(絵画は持参しなかった)。また、A氏保有の高級時計(13本上代約45億円分)も同様に持ち出した。
1998.05 28日、鈴木がA氏の会社を訪れた際、A氏より逮捕情報を聞かされた。鈴木はピンクダイヤモンドと絵画を「売らせてください」と言ってA氏より預かり、予め用意していた「念書」をA氏に渡した。また、現金8000万円を借り受けた。鈴木は西の妻からも1800万円を借りていた。西に対してはエフアールの存続対策や愛人と子供の生活費への工面等を依頼し、西は鈴木の逮捕後、愛人に毎月50万円~60万円を渡した。
31日、親和銀行不正融資事件で鈴木が警視庁に逮捕される。不正融資は1993年頃から始まっていた。
1998.12 鈴木が保釈され、都内の愛人宅に身を寄せた。西が朝から酒浸りの鈴木に早く日常を取り戻すよう説得し続けた。
1999.03 勧業角丸証券課長の平池より西に宝林株800万株の売却話が持ち込まれる。西は約1か月の調査の後、株購入を決断。購入資金3億円をA氏より借り受ける。宝林株取得に当たり、鈴木は海外のオフショアにペーパーカンパニーを用意し、うち3社を引受の受け皿とした。宝林株を高値で売り抜けようとするが、株価を高値で維持する資金が続かず、鈴木と西はA氏に資金協力を求めた。
1999.05 20日から末日にかけてA氏が宝林株取得資金3億円を西に貸し付けた。
31日、宝林株売買契約が成立。
1999.07 8日。A氏、西、鈴木の3者で「合意書」を作成。西と鈴木による仕手戦の底支え資金をA氏が提供することが合意された。
1999.07 30日、宝林株で利益が出たとして西がA氏に15億円を届ける。実際の純利益は50億円を超えていた。なお、この時、西は「私と鈴木の取り分は借入金の返済に充てる」と言い、A氏は15億円を受け取り、西に1億円(西と鈴木に5000万円)を渡した。翌31日、西と鈴木がA氏の会社を訪ね、15億円の処理を確認するとともに、A氏より5000万円ずつを受け取ったことに礼を述べた。鈴木と西はA氏を外して利益を分配するとの密約を交わし、鈴木は西に「合意書」の破棄を執拗に迫った。西がそれに応じ「合意書は破棄した」と鈴木に伝えたことで、複数回に分けて報酬10億円が鈴木より支払われた。
金融庁へ宝林株の「大量保有報告書」を提出するにあたり、外資系投資会社の代理人についた杉原正芳弁護士は資金の出所につき「紀井義弘」と虚偽の申告をした。平成18年10月にその事実を知った紀井が杉原に抗議するも、杉原からは一切返事はなかった。
鈴木は西に「今後はM&Aを専門とする会社を作る必要がある」と言い、ファーイーストアセットマネージメント(FEAM)が設立された。鈴木が西に申し出た要求の一つが専用の車と給料の提供で、「(車は)関西のグループとの付き合いでは見栄も必要となるので、黒のベンツに」とか「給料は社会保険付きで」と言った。ベンツの購入代金が1400万円、専属の運転手の雇用で1200万円、他にもガソリン代や維持費等で250万円がかかり、鈴木への給料に至っては2250万円を支払ったと西は言う。さらに鈴木の愛人に50万円~60万円、鈴木の実父に60万円の給料をそれぞれ支払う約束をさせられ、それに伴う費用が約2000万円を要した。エフアールの専務だった大石高裕の妻に5000万円の貸付を発生させたのも同社だった。「鈴木と大石は公判中でもあり、鈴木から『大石の口を封じたい』という要請があった」。これらの支出は、鈴木が責任を持って利益を積み上げるという約束の下に西は実行したというが、鈴木から返還はなかった。これらの資金7億円以上を全てA氏が出している。
鈴木は親和銀行との示談交渉を進めた結果、平成12年1月11日、和解金約17億円の支払いを約束して成立した。これにより、鈴木が判決で執行猶予となることが確実視された。A氏はこの示談交渉の経緯を知らされておらず、株取引の利益をもって支払いを約束し実行した行為は「合意書」に違反したもので横領に当たる。
1999.09 30日、鈴木の要請に基づいてエフアールの決算対策を名目に鈴木より預かっていた手形の原本と「債権債務は無い」とする「確認書」を渡す。「確認書」が鈴木に頼まれ便宜上作成したものであったことはいくつもの書類で明らかであり、債権者の側近であったエフアールの天野裕常務も認めていた。
2000.09 20日、鈴木に懲役3年、執行猶予4年の有罪判決。前後してエフアールが社名を「なが多」に変更(9月)。
2001. エフアールが9月期の売上高32億6100万円を計上。
2002.02 27日、西が志村化工の株操作容疑で東京地検特捜部に逮捕された。しかし、西は取り調べで鈴木の関与を否定。特捜部は鈴木の逮捕が最終目的であったが、西は逮捕前に鈴木に懇願され鈴木を100%かばった。
2002.03 この頃より霜見誠がジャパンオポチュニティファンド(JOF)のマネジャーとして鈴木の資金を運用か。
2002.06 A氏が西に鈴木の債務処理を確認。西は「今後は、株取引の利益が大きく出るので、鈴木の債務を圧縮してほしい」と依頼。A氏は鈴木への貸付金40億円超を25億円にすることを約した。6月20日、西がA氏に対して債務が323億円あることを承認する「確約書」を手交した。
6月27日、改めて借用書の作成が行われたが、その際に鈴木が「社長への返済金10億円を西さんに渡している」と発言したことから、A氏が西に確認を求めると、西が10億円の受け取りを認めたために、額面が鈴木は15億円、西が10億円とする借用書をそれぞれが作成し、確定日付がとられた。また、鈴木が「年末までに返済しますので、10億円にしてください」というので、A氏は応諾した。
2002.12 24日、鈴木がA氏の会社に10億円を持参した。後日、A氏が西に金の出所を聞くと、西は「海外の投資家を騙して用意した金で、鈴木は身の安全に神経を使っている」と答えたが、それは全くの作り話だった。しかし、A氏は鈴木が株取引の利益を巨額に隠匿している事実を知らなかったため、西の話に頷いた。
2005.10 ホテルイースト21のラウンジにて西と鈴木が面談。株取引の利益分配金の授受について語られる。その際に西が「合意書」の話を持ち出すと、鈴木は「合意書及び借用書は、平成14年に破棄したと言ったじゃないですか」と反発した。分配金の授受は鈴木の提案で、香港で43億円分の銀行振出の保証小切手を渡し、残る約90億円は3か月以内に海外のオフショア口座を2社ほど開設して、そこに振り込むという約束が交わされた。実行は西の執行猶予が解けて、パスポートを入手できる翌年8月以降となった。
2006.02 「なが多」が社名を「クロニクル」に変更。同社は持ち株会社となる。
2006.10 2日、西が利益分配金の受け取りで長男を伴って香港へ行く。ところが43億円の保証小切手受領直後にワインを飲まされ意識不明に陥る。リパレスベイで瀕死の重症を負って意識不明のまま簀巻きにされた状態で香港警察に発見される。所持品全てを奪われていた。
2006.10 13日、西の事件を聞き、A氏が鈴木に連絡。A氏の会社を訪ねた鈴木にA氏が尋ねると、鈴木は一切を否定し「西とは何年も会っていない」点を強調した。また、A氏が「合意書」を提示して事実関係を尋ねると、西から破棄したと聞いていた鈴木は驚いたが、それも「株取引は行っていない」と否認し、すべては西の作り話だと強調した。そこで、改めて西を交えての協議をすることになった。西が紀井義弘と面談を重ね株取引で売りをかけた銘柄と利益を聞き取ってきたが、紀井はその後にその明細をリストにまとめた「確認書」を作成した。
16日、A氏、鈴木、西による三者協議が行われ、A氏が鈴木に株取引の状況説明を求める。鈴木の「利益は約60億円」という言葉を前提にA氏が了承し、「和解書」が作成される。鈴木は西とA氏にそれぞれ25億円を、毎月10億円ずつ5ヶ月で支払い、さらにA氏には別途で20億円を2年以内に支払う約束をする(テープに録取)。鈴木はその後も頻繁にA氏に架電して「和解書」で約束した支払いについて追認するとともに10月23日にもA氏を訪ねて面談を重ねた。
2006.11 鈴木がA氏宛てに手紙を送付し「和解書」の撤回を通告。平林英昭(弁護士)・青田光市を交渉の代理人とする旨を通知。それに対し、A氏は当事者間での話し合いが必要との内容の書面を平林経由で鈴木に伝えるが、鈴木は2通目の手紙をA氏に送り、代理人による交渉という考えを崩さなかった。以後、鈴木との連絡が完全に途切れ、鈴木は所在不明となった。交渉役に立った青田光市と平林英昭は、交渉を解決ではなく決裂させることを目的にしていた。
2007.03 A氏が初めて平林と面談した際、平林が開口一番に「社長さん、50億円で手を打ってくれませんか? それであれば、鈴木はすぐにも支払うと言っているんで……」と言ったが、A氏は株価の買い支え資金として総額200億円超を出してきた経緯から「それは応じられません」と拒んだ。以降、青田と平林の対応はことごとく「合意書」「和解書」を無効にするための発言や主張に終始した。青田は「鈴木はA氏と西に脅されて、その場を切り抜けるために止むを得ず和解書に署名指印した」「会社のあるビルのエレベーターを止められ、事実上の監禁状態に置かれた」などという虚偽の発言を繰り返し、平林もまた「合意書」を指して「こんな紙切れ一枚で」と極めて不謹慎な発言をするとともに鈴木への貸付金についても支離滅裂な理由を並べ立てて難くせをつけ続けた。
青田と平林の言いがかり的な質問や主張に対応するため、A氏が天野裕と面談。天野は「鈴木の目が怖いので社長と会ったことは秘密にしてほしい」と言ったが、平成11年9月30日付の「確認書」や鈴木が株取引で470億円超という巨額の利益を上げた点について真実を語った。その後、A氏と面談した事実が鈴木に発覚し、天野は「A氏とは会うな」と厳しく叱責され、以降、鈴木と天野の間には亀裂が生じていった。
この時期、鈴木が改めて証券市場で活発な動きを見せ始めた。西との株取引で関わったアポロインベストメントがステラ・グループに商号変更し、同興紡績やオーエー・プラザなどを傘下に治めるとともに数多くの業務提携を進め、業容の急拡大を見せた。鈴木による企業支配の実例である。また、青田光市により「赤坂マリアクリニック」の乗っ取りが行われた。
2007.07 7日、鈴木がエフアール社長時代に資金繰りで山内興産(末吉和喜)から預かった株券をめぐって山内興産から訴えられた訴訟で、鈴木に対し10億円を超える支払い命令が出たが、鈴木より示談交渉を進めた結果、4億1900万円を支払うことで和解が成立した。鈴木は明らかに詐欺に等しい行為を働いていたと西は指摘していた。
2008.06 A氏が鈴木との交渉で代理人に立てた利岡正章が、静岡県伊東市内のパチンコ店駐車場内で暴力団構成員ら暴漢二人に襲撃され瀕死の重傷を負う。利岡は相手方の組長と話し合い、事件の黒幕を明かすという約束で示談に応じたが、組長は態度を曖昧にし続け約束を果たさなかった。しかし、複数の関係者の証言で襲撃した二人と青田との接点が発覚し、鈴木と青田の殺人未遂教唆が明らかになるが、鈴木と青田が金の力で隠蔽工作を図り、教唆事件は表沙汰にはならなかった。
2009.11 2日、西がA氏に改めて債務を承認する「承諾書」を作成、手交した。そこには鈴木への債権137億円が明記された。
2010.02 西が夫人の故郷にある別邸で自殺。A氏を始め、鈴木、青田、茂庭、鈴木の実父そして家族に宛てた遺書を残した。直後にA氏は西の妻と子息を伴い鈴木の実父徳太郎を訪ね、鈴木本人との面会を要請した。徳太郎と鈴木の妹が同道して最寄りの警察署に向かい、警察署にて鈴木に架電するも、鈴木は警察署に来ることはできないと拒否した。鈴木は翌日か翌々日にもA氏に電話すると約束して電話を切ったが、その約束を守ることはなかった。鈴木の対応を見れば明らかなように、「和解書」の作成経緯にA氏や西の脅迫があれば、その旨を警察署で明確に主張する絶好の機会であったはずだ。ところが鈴木は自らその機会を拒んだのである。青田と平林を含め鈴木の言う強迫なる者が実態のない言いがかりであることが分かる。
2011.06 ステラ・グループが上場廃止。
2011.08 3日、クロニクルの天野裕(会長)が京王プラザホテルの客室で自殺。しかし同社は「未明に心不全が原因で自宅で急死」と発表した。天野の周辺関係者の間では「JOFからの資金の運用方法をめぐり、鈴木との間にトラブルがあったのではないか」という証言がある一方、「殺されたのではないか」という証言も多くあったが、病死で処理された。
2012.09 クロニクルが売上高約990万円、当期純損失約29億6000万円を計上。
2013.01 前年12月から失踪していた霜見誠が、妻と共に埼玉県久喜市内で遺体で発見された。後に殺人、死体遺棄容疑で渡辺剛らが逮捕される。霜見は鈴木の株式取引の窓口となり、鈴木の隠匿している資金を運用していた関係が指摘されたが、事件は解明されない謎が多く残っている。
2013.07 クロニクルが有価証券報告書を期限内に提出できず上場廃止となる。
2015.07 8日、A氏が鈴木義彦に対して貸金返還請求の訴訟を東京地裁に起こす。
2018.06 11日、東京地裁の一審判決でA氏の請求が退けられた。A氏が控訴。
2018.11 28日、東京高裁の二審判決でA氏の請求が退けられた。