「種子田益夫」の巨額債務を長男吉郎に問う

第1章 種子田益夫の素顔

事件師と呼ばれた男が令和元年10月13日に亡くなった。種子田益夫という。昭和12年1月12日に宮崎県小林市に生まれ、享年82歳。死因は病死ということだが、2~3年ほど前には80歳を超えて臓器移植のために渡米まで予定していたようだから、種子田本人にはまだ死ぬ覚悟などなかったのだろう。

「種子田は2年前の夏に臓器移植の手術を受けると言ってアメリカに渡航する準備をしていた。ところが、突然それが中止になって、本人はえらく気落ちしていたが、予定されていたドナーに問題が起きたのではないかという話だった」と関係者は言う。その後も日本国内に留まり、恐らくは愛和病院グループのいずれかに入院し治療を受けていたものとみられる。関係者によると、種子田の死亡地は四国地方とのことだが、高知にはグループ内の高知総合リハビリテーション病院がある。この頃でも「種子田は現金で20億円以上を保有している」と種子田の秘書が知人に漏らしていたが、債務の返済に回す気など全くなかったという。

しかし、その死は誰にも知らされていなかったようで、いくつもの金融機関を舞台にして不正融資事件を起こし、さらにその事件では演歌歌手の石川さゆりまで巻き込んでいただけに芸能マスコミが放っておくはずはなかったが、訃報は一切流れなかった。家族や親族の誰もが相続を放棄する手続きを早々に取り、種子田益夫との関係を終わりにしてしまおうとした。これは、種子田益夫が数人の債権者から莫大な金を騙し取っていくつもの病院を買収して、病院を担保にするのが前提だった約束を破った揚げ句、益夫の一族もまたこぞって病院の権益を享受しながら負の債務については頬かむりしているもので、「詐欺の一族」と未来永劫にわたって言われても当然の振る舞いで、葬儀がどのように行われたのかさえ誰も知らないという徹底ぶりだったのである。

(写真:種子田吉郎。父益夫が買収した7カ所の病院理事長。益夫の巨額の債務に対し知らぬ存ぜぬの振りをしても、残された一族の徹底した相続放棄という手段で証明されている。吉郎が父益夫のやり方を十分に承知の上で相続放棄をすることは、吉郎、益代、安郎ほか家族は人間として社会的責任が大きな問題となることで関係者への謝罪及び説明責任があることは当然であり、このままでは3家族は未来永劫、世間がまともな人間と評価するはずがない)

そこまでして種子田の死を世間に隠し続けようとする家族や身内には理由があったかもしれないが、しかし、それはあまりにも自分たち一族が都合よく組み立てた常識はずれで悪党極まりないものだった。このようなやり方を地元市民や所管の自治体はじめ医師会、生労働省が絶対に許してはいけない。

今から四半世紀も前の平成6年頃、種子田はゴルフ場経営者としてアイワグループを率いていたが、それは飽くまでも表の顔に過ぎず、実際には株式市場で仕手戦を仕掛ける相場師への資金融資でハイリスク・ハイリターンの利益獲得を目指し、それを業とするほどにのめりこんでいた。宮崎県や兵庫県内に複数のゴルフ場があったが、いずれも赤字経営に苦しんでおり、また昭和50年代後半から本格化させた病院買収にも拍車をかけていたために、いくら金があっても足りないという状況にあった。そうした種子田が縋りついたのがT氏である。

種子田は、資金繰りではT氏に対して深刻な負担をかけさせた。日常的な運転資金に係るものと病院買収に係る資金繰りの双方で、特に病院買収に係る資金については種子田がすでに買収した病院(牛久愛和総合病院)を担保に入れると言い、その証として「今は長男吉郎を理事長にしているが、吉郎は『父からの預かり物で、いつでも父に返します』と言っています」と種子田が多くの債権者に何回も説明していたので、T氏は自分の知人友人にも声をかけ協力したのだ。ところが、T氏が「そろそろ担保設定をして欲しい」と言うと、種子田は、その約束を反故にして逃げ回った揚げ句に「病院は私には関係ないので、働いて返します」などと言い出し、T氏ほか融資に協力したT氏の知人友人を完全に裏切った、というより最初から完全に騙す積りの行為だった。

こうした吉郎以下家族、親族の身勝手な振る舞いには病院関係者からも非難の目が注がれ、常仁会グループ病院のトップにある吉郎に対して社会的責任を求める数多くの指摘がある。

冒頭にも挙げたように、種子田益夫の長男吉郎を筆頭とする家族親族は、種子田の死の何年も前より計画的に負の部分(巨額の債務)の相続放棄を悪徳弁護士の関根栄郷に指南させ、あらゆる手段を弄して病院という資産の処理を拒み、一族全員で詐欺的行為を構築させたが、まともな人間のやることではない。しかも病院は一般企業とは違って人の命を預かるところで、絶対にあってはならない犯罪なのである。

病院グループを統括してきた長男吉郎の社会的責任は極めて大きく、公共性の強い病院を私物化して一族の権益と捉える発想など決して社会に許容されるものではない。

(写真:種子田益夫相続関連相関図。種子田の兄弟姉妹は存命が一人のみで、益夫と明子の間の子供3人が相続放棄ではメインになっている。しかし、病院の権益を確保するために益夫が借りたまま放置してきた巨額債務については知らない、関係ないというのはあまりに無責任で身勝手な感覚としか言えず、非難されるのは当然だ。相続放棄は益夫の妹一人ほか吉郎、益代、安郎が中心となっているが、このままではそれぞれの家族構成を明記せざるを得ない)

人は死ぬ間際には周囲に迷惑をかけぬよう最大限の気を使い、家族は家族で後の処理をきちっとするというのが人間社会のルールであるはずだが、生前の種子田益夫にも、長男吉郎以下の家族親族にも、そうした発想は微塵もないようだ。ここでは、種子田益夫がT氏と知り合ってからいかに種子田益夫と吉郎の父子が横着三昧の関わり方をしていたか、その経緯をつぶさにたどってみることにする。

〇種子田の実像は虚業家だった

T氏が種子田に初めて会ったのは平成6年頃のことで、種子田が負っていた債務の一部約1億5000万円の弁済のための資金を貸し付けたのが始まりだったという。当時、種子田は「愛和グループ」を率いて複数のゴルフ場ほか多種多様な事業経営を手掛ける“実業家”として振る舞っていたが、実際に利益を出している事業はほとんどなく、経営は事実上“火の車”状態だったことが後日判明した。T氏はそうした種子田の実像を知らないまま、アイチの森下安道に頼まれ協力することにしたという。

この債務約1億5000万円(月3%の金利)について、種子田は約束の3か月という期限内に完済させたためにT氏は信用した模様だ。すると、種子田によるT氏への猛烈なアプローチが弁済の翌日から始まった。

「種子田からT氏の会社に電話がかかり、『ぜひ、お食事をご一緒したい』と、赤坂の『口悦』という料亭に招かれた。T氏は別の債権者との調整をしたことに種子田が感謝して食事に招かれたと思い気軽に誘いを受けた。そして、その夜は種子田から特段の話も無かったため、『すっかりご馳走になりました』と御礼を言って種子田氏と別れたそうだ。

ところが翌日から、種子田が連日電話を架けてきて、その度に『口悦』で食事を伴にすることが4日も続いた。そうなると、さすがに種子田には何か思惑があるのではないかとT氏は考えたが、種子田からは一向に具体的な話も無かったためT氏も敢えて聞かなかった」(関係者)

しかし、誘いが5日連続となればT氏も訝しく思うのは当然で、種子田から電話が入り、T氏は「口悦」に出向いたが、連日の誘いを理由も無く受けるわけにはいかず、「何か私にお話したいことがあるのではないか?」と尋ねることになった。すると、種子田がようやく本音を切り出したのだ。「7億円、何とかなりませんか?」

T氏が詳しい話を聞くと、種子田には別に強硬な債権者がいて、その調整で協力をお願いしたい、と胸の内を語った。そして「月に1割の金利は問題ないが、食事のたびに2000万円を持参するのが重荷で」と言う。種子田によれば、その債権者というのは暴力団で、「第一に暴力団とは、これを機に縁を切りたい」とも言う。T氏が「その7億円で全て間違いなく解決できるか?」と尋ねると、種子田は「はい、これで全て解決します」と答えた。

(写真:債務弁済契約公正証書。写真は額面15億円の公正証書だが、他に6000万円、1億2000万円、25億円の構成諸所が作成されている)

種子田は、返済は10カ月後になるが、その間の金利はまとめて天引きして欲しいとも言った。また金利は月に5分と種子田は提案したが、それでは金利が高過ぎて返済に窮することを心配したT氏が「もっと安くても良いので、月3分でも十分ですよ」と言うと、種子田は「では4分でお願いします」と言う。T氏がその場で計算すると、貸付金の額面が12億円ならば、月4分の金利を差し引いても手取りで7億円余りになると種子田に言ったが、種子田は「それで十分です。是非お願いします」と頼んだ。

前出の関係者によると、債権者は種子田とのやり取りから「これですべてが解決するなら」と考えて種子田の要望を承諾したが、これが後から考えれば大きな間違いだった。先にも触れた通り、種子田は実業家を装っていただけで、T氏から金を引き出すために、そんな言い方をしたに過ぎず、非常に場当たり的な対応だった。

種子田による債権者への猛烈なアプローチがさらに強まる中、種子田より依頼され12億円の融資を実行した直後からも連日のように債権者の会社に電話をかけてくるかと思えば、予約も無く唐突に訪ねてきて債権者に面会を求めるようになった。そして、次から次へと「手形が回ってきた」と言う理由でT氏に金策を頼むようになった。

「T氏は、自身の性格や生き様から、一旦口に出して約束したことは必ずやるということを信条としてきたから、種子田の融資の要望にも可能な限り応じていた。

とはいえ、種子田の金策の要求が五月雨式に繰り返され、正月の元日にも部下の大森という社員をT氏の自宅に使いに出すことさえあった。こうして、返済が一切ないところでエスカレートしていく種子田の要求に対して、さらなる融資に応じることが難しくなり、『これ以上の融資は無理だ』と伝えたことが何回もあったほどだ」と関係者はあきれ顔で言う。

T氏がそう言って断っても、種子田は怯みもせず「社長の信用ならば可能だから、他から引っ張って欲しい」と言って、債権者の友人たち数人の名前を出して依頼することさえあったという。友人たちの名前をどこで調べたのか、T氏は呆れて、とんでもないことを言う人だと思いながらも、その度に種子田が土下座して、涙を流しながら「何とか助けて下さい。お願いします」と頭を床に押し付けながら繰り返し懇願したため、T氏も折れて協力せざるを得なかったという。

〇返済が一切ないまま債務が巨額に

「種子田の人柄や考え方、過去の事業歴が一部でも分かっていれば、融資はもちろん付き合い方も変わっていた」と関係者が言うように、種子田の実態は、事業家としての顔などあくまで表面的なものに過ぎず、ゴルフ場の経営は赤字続きで火の車状態にあり、会員権は裏で5000人前後も募集と販売をしていたのが実情だった。しかも、種子田はその金を銀座等のクラブやバーなどで湯水のように散在していたのである。種子田はそうした事実を世間には隠し、唯一利益が出始めていた病院経営をさらに拡大するために周辺から借り受けた資金を集中的に投下していたのである。

しかも、種子田の日常は冒頭にも挙げたように株式市場で仕手戦を仕掛ける相場師への資金融資で利益獲得を目指し、それを業とするほどにのめり込んでいたから、法的にも問題のある行動を繰り返していた。その一つの例が平成14年2月に東京地検特捜部が着手した、志村化工(現エス・サイエンス)の株価操縦事件だった。さらにベンチャー企業の、株式市場での上場による資金調達にも関わり、企業の決算対策で不良債権を引き受けて粉飾に加担するようなことも平気で引き受ける人物であることが次々に判明していったのだ。

(写真:債務残高確認書。この一覧表はアイワコーポレーションの北条という経理担当責任者が作成し毎月持参していた。債務は平成15年現在で300億円を優に超えていたが、種子田には返済する意思は見られなかった)

種子田のまるで際限がないような金策にT氏は手を焼きつつも、遂には根負けして「自分の周辺関係者に相談するしかない」という考えを種子田に伝えたという。

すると、種子田は「融資を戴けるなら、どのような担保提供にも応じます」と言い、「愛和グループ」系列のゴルフ場(イタリア所在のゴルフ場も含まれていた)や病院を担保に提供すると持ち掛けてきた。T氏の何人もの友人たちも種子田の話を聞いている。種子田は「牛久愛和総合病院だけでも500億円以上の担保価値があります」とも公言していた。

その当時、種子田が経営するゴルフ場は宮崎、広島、兵庫などに複数か所あり、また病院も茨木県牛久市の「牛久愛和総合病院」を核に高知、宮崎、小倉、新潟など全国にある病院を相次いで買収している最中にあったようで、それならばT氏は周辺関係者に具体的な相談ができるかも知れないと思った。種子田が旺盛に病院を買収している事実、そして債権者から借り受けた資金を病院買収や設備の拡充に投下している事実を証言する者も種子田周辺や病院関係者など多数に及んでいる。

ちなみに牛久愛和総合病院は、設立当初は「牛久中央病院」で、その後、病院の名称が「牛久愛和病院」となったのは昭和61年のことで、この時以来、病院の経営は愛和グループを率いてきた種子田益夫が握ることになった。ところが、種子田は絶対的なオーナーとして病院に君臨しながら、長男の吉郎を理事長職に据えて、自分は決して表に出なかったのである。種子田には前科前歴(売春防止法違反(場所提供)、業務上過失傷害、法人税法違反)があった上に反社会的勢力の一員という烙印が押されていたから、理事長になりたくてもなれるものではなかった。

先に挙げた、常仁会が統括する全国の病院も、種子田が昭和50年代後半にアイワグループに設立した「アイワメディカル」という会社を軸にして製薬会社や病院との関係を深め、病院の買収という環境を作り始めて行った結果であった。

種子田による担保提供の話を踏まえ、債権者が知人に相談を持ち掛けると、何人かの関係者から「病院を担保に提供できるなら協力できるかも知れない」という返事があった。

(写真:念書。種子田益夫の部下が債務の担保にゴルフ場及び会員権を供する念書)

T氏が種子田に「本当に病院を担保に出来るのか?」と念を押して尋ねた。すると種子田は即座に「大丈夫です。息子(吉郎)に理事長をさせていますが、実際の経営者は私なので、担保に入れることは全く問題ありません」と確約したのである。ちなみに、種子田は「(病院の備品は)灰皿からコップの一つまで全て自分のものだ」と豪語していた。

しかし、その後も日増しに種子田への融資額が増える中で、債権者が担保提供の話を具体的に進めようとしたところ、種子田が「私の病院は、東邦医大、東京女子医大、京都大学医学部の応援や支持を受けて成り立っており、その担保価値は牛久の愛和総合病院だけでも500億円以上は十分にあります。しかし、茨城県を始め厚生省や社会保険庁の監視下にあるため、今すぐには担保にすることはできませんので時間を下さい」と言を翻したのである。

また一方で、種子田は「病院は私、種子田益夫のものであり、私が自由にできるのです。借り入れの担保はゴルフ場会社やアイワコーポレーションにしますが、私が借入をすることは病院が借入をし、病院が保証するのと同じと思って下さい。必ず、借りた金は病院で返します」とか「私の息子も『病院は父から預かっているものなので、いつでもお返しします』と言っているので、大丈夫です」などと疑う余地もないような言動を繰り返したことから、結果としてT氏が窓口となり、T氏の複数の知人を巻き込んだ格好で種子田への融資が継続されたという。

(写真:愛和コーポレーションが振り出した小切手、手形の一部。実際には常に繰り延べされ、額面が膨らむ一方だった)

しかし、T氏にとって最も許し難かったのは、「愛和グループ」の病院を事実上の担保にしてT氏やT氏の知人から巨額の融資を受けながら、種子田が取った行動は、長男の吉郎を病院の理事長に据えたまま、種子田と病院の関係を本格的に疎遠にして、T氏やT氏の多くの友人や知人から病院を守る態勢を構築していったことだった。これらのいきさつについて、吉郎は全て承知していることであって、父益夫の詐欺犯罪の共犯にも相当している行為だった。

種子田が融資を依頼した際に「病院を担保に供することはできる」と言明したことから、いざその実行を種子田に促すと、病院の公共性を盾に「担保提供はすぐには難しい」と言い出し、さらに時間が経過すると、「病院は自分のものではないので、これから働いて返します」と開き直った返答に終始していったのである。

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