第2章 病院私物化の裏工作
種子田は平成9年に武蔵野信用金庫から受けた融資を巡る背任事件が表面化して警視庁に逮捕される事態が起きた。東京地裁は平成11年6月28日に無罪判決を言い渡したが、控訴審ではそれを破棄して有罪(懲役1年6月)の逆転判決となった。種子田は上告したが、その最中の平成13年10月5日に東京商銀信用組合を巡る不正融資事件が表面化して東京地検に逮捕される事態が起きた。さらに加えて国民銀行が平成12年に経営破たんしたが、その最大の要因が種子田に対する90億円を上回る不正融資だった事実も明らかになった。
この融資には石川さゆりの個人事務所が立ち上げたカラオケボックス運営会社「カミパレス(ドレミファクラブ)」に対する巨額の融資が発覚し、石川さゆりの事業を応援していたのが種子田だったことから、一躍マスコミでも取り上げられることになった。国民銀行の融資で種子田が逮捕されることはなかったが、同行の不良債権を引き継いだ整理回収機構が種子田と石川に対し損害賠償請求訴訟を起こし、最終的に種子田には52億円、石川については10億円の支払命令が下された。ちなみに東京商銀信用組合事件で種子田は平成16年2月、懲役3年6月の判決が下され刑に服した。その後、石川さゆりは返済を続けてきた模様だが(一部には今も返済を続けているという話はある)、それに反して種子田は返済を滞らせているという。そのことだけでも種子田の人間性が分かる。石川さゆりの債務は、元はと言えば種子田が作ったものだ。種子田は生前中から石川さゆりに対しても周囲の関係者に対しても責任を果たそうとしなかった。また長男吉郎や家族は病院の権益を守ることに執着するばかりで、父益夫の負の遺産について責任ある対応が求められるはずであるが、父益夫が迷惑をかけ続けた周囲の関係者にやるべきことをやるという言動が一切見られない。常に拝金的な考えしか持たないから、そういう発想になるのだろうが、長男吉郎を筆頭に実に浅ましい家族としか言いようが無い。
こうした種子田を巡る刑事事件が頻発したことで、T氏による貸金の回収がままならない状態が確実に数年間は続いた。
種子田が保釈された後の平成15年5月15日、T氏は種子田の来訪を受け、その場で債務の確認を行ったところ、種子田は否も応も無く認めたという。
「種子田が拘留されたり保釈されても、T氏の前に姿を現すことはほとんどなかったが、それに代わって種子田の部下たちや経理の社員が毎月T氏の下を訪ねて、手形の書き換えや債務確認が行われた。しかし、彼らが返済原資に挙げるのはゴルフ場の売却や会員権であって、病院には一切触れなかった。病院の売却については『社長、一度息子(吉郎)と会って下さい』という話が種子田の筆頭の側近で、病院事業の立役者だった田中延和氏から出たが、種子田の当時の代理人だった関根栄郷弁護士に止められて実現しなかった。ただし、息子(吉郎)は田中氏から言われ、その後、T氏の代表に電話を架けてきたが、卑しくも病院の理事長とは思えないぞんざいな言葉遣いで『社長さんの関係者は金持ちが多いので、そちらで処理して下さい』と言って、一方的に電話を切ってしまったという。もちろん吉郎から謝罪の言葉はなく、その後も一切電話が架かってくることはなかった」(関係者)
種子田は若いころから反社会的勢力との親密関係が指摘され、社会的にはコンプライアンス上で問題ある人物とされてきたのはもちろんだが、吉郎もまた実父益夫に代わって暴力団関係の債権者に金利を支払っていた事実があるだけに、今後、さまざまな事実が明確になれば実父益夫と同様にコンプライアンス上の問題が浮上すると思われる。
弁護士の関根栄郷は、それまで種子田の委任を受けた弁護団が15人ほどいた中で、種子田の言動や暴力団との深い関係、付き合い方に嫌気して相次いで辞任していったが、唯一親密な関係を続けていた。関根も種子田と二人で銀座のクラブを飲み歩いていたが、時にT氏と鉢合わせをすると、関根と種子田が飛んできて、『できるだけ早めに返済します』と挨拶する場面が何回もあったという。T氏がクラブの社長たちから聞いた話では、銀座で一番金を落とす客は誰か? という話があり、種子田が突出してNO.1であり、多いときでは1ヶ月で8億円にもなったという。確かに種子田の銀座での金の使いっぷりは有名だったかもしれないが、好みの女性を口説くためだけに店に姿を見せていたそうで、決して褒められる飲み方ではなかったとも言う。「息子(吉郎)も父親同様に行儀が良いとは言えない」とは吉郎を知る店長やマネジャー、多くのホステスたちの証言である。
だが、種子田が銀座で落とす多額の金の出所が、ゴルフ場の会員権の乱売で得た事実上の裏金であり、また吉郎が管理している複数の病院からの“上納金”でもあったと言われており、これはゴルフ場や病院にとっては明らかな背任行為で刑事事件である。
種子田がオーナーとして病院を支配し続けてきた事実は牛久愛和総合病院の初代院長だった故村井良介を始め、日本医師会の参与だった檜田仁、東邦大学医学部教授だった永田勝太郎などが種子田の依頼に基づいて病院の拡充や医師の派遣等で尽力した事実を「陳述書」にもまとめていることでも明かである。また種子田が牛久中央病院を買収した後に牛久愛和総合病院と名を変えた当時、医師の資格が無ければ理事長には就けなかったにもかかわらず、何の資格もない吉郎(日本大学芸術学部卒)が牛久愛和総合病院ほか傘下に収めた全国の病院でも理事長職に就いた背景には「地元茨城県出身で自民党の厚労族の重鎮たる丹羽雄哉衆院議員が種子田氏から数千万円の献金を受けて厚生省に強く働きかけた結果だった、という指摘があった」(関係者)という。「種子田が病院のオーナーである事実は病院職員の隅々まで知れ渡っていた事実で、決して揺らぐことはない」(関係者)
「私が病院のオーナーであることに間違いはないので、いざとなったら病院を売ってでも必ず返します」と種子田は言い続けたが、卑劣にも掌を返すような豹変ぶりでその言葉を翻したことから返済は滞るばかりだった。
T氏による種子田への可能な限りの協力がなされたにもかかわらず、T氏の周囲からは耳を疑うような話が数多く聞こえてきたという。関係者によると、
「T氏が種子田へ融資をした際、金利分を先取りしたのは額面12億円の時の1回だけで、その後は大半が月2%だったのに、種子田は周囲に『金利をいつもまとめて引かれて手取りが殆どない』と語ったそうだが、そもそも金利先取りの話は種子田が言ったことで、しかも一度だけだった。T氏から言ったことではなかった。そして金利先取りの話は、すべて種子田が返済を先送りするために頼んできたことだった」
また、融資が実行されてから3年4年という時間が経つ中で、返済が殆ど実行されなかったことに業を煮やしたTが困惑しながら確認を求めたところ、種子田が「(平成10年の)年末までに最低20億円を返済する」と約束しながら、実際には1億円しか持参しないことがあった。それ故、T氏が多少は語気を荒げて「何だ、1億円ですか!?」と言った場面があったという。ところが、これについても、種子田は20億円の返済約束を隠して「1億円を持って行ったのに、『何だ、たった1億円か』と言われた」と周囲に愚痴をこぼしたという。
T氏にしてみれば、何年も返済を待たされ、ようやくうち20億円の支払を約束できたというところに、持参したのが1億円だったら、誰だって文句を言うのは当たり前のことである。
さらに領収書についても、T氏は種子田から「石原という名前でお願いします」という依頼があったため、全て「石原」名で領収書を発行していたというが、種子田は「返金しても受領書を出してくれない」などと、とんでもない話を周囲にしていたらしい。これでは、話を聞いた人たちが誤解をするに違いない。T氏の耳に入った話は以上のような次第だが、種子田は他にもいくつもの作り話をしていた。
長い間逃げ回っていた種子田が平成22年12月9日、ようやくT氏の前に姿を現した。T氏は最初からのいきさつの全てを話し、「違っているところがあれば、些細なことでも全て言って下さい」と問い質した。すると、種子田は「社長のおっしゃる通りです。済みませんでした」と、ひたすら謝っていた。
しかし、そうした状況下でも種子田はその時「ところで社長、2500万円をお借りできませんか?」と真顔で尋ねたという。
「T氏もこれには本当に呆れ果てたが、種子田氏はT氏の知人にも声をかけ『手数料を払うから社長を説得して』と依頼していたという話が聞こえて来た時には、さすがにT氏も怒りを露わにしていた」(関係者)
種子田の約束や謝罪の言動がいかに言葉だけに過ぎないかがよく分かる。
また平成22年12月9日の面談の際にも、T氏が年末までに具体的な返済計画の提出を求めると、種子田は「年明けの1月にして下さい」と言って態度を明らかにしないまま帰って行ったが、それ以後は一切連絡が取れなくなり、種子田からの音信も途絶えてしまったという。
〇競売にかかった父益夫の自宅を長男吉郎が買収
種子田が病院を担保にすると言って融資を引き出したにもかかわらず、いざとなると、公共性を盾に担保設定を拒んだり、息子が理事長であって種子田自身は関与していないという主張は、どのように考えても罷り通るものではない。
関係者によると、「T氏は以前、腓骨神経麻痺症の症状が出て、種子田氏に請われるまま牛久愛和総合病院に1か月以上入院したことがあった。その時の経験から言えば、『オーナー室』という表札のかかった特別室のような広さと設備を整えた部屋があったが一度も使用された様子が無く、また院長以下全職員が種子田益夫氏をオーナーと呼び、種子田氏の客としてT氏を最上級でもてなした、ということだった。
種子田が病院経営に乗り出してから、T氏から借りた金でいくつもの病院を買収し、力のある医師会や国会議員に頼んで施設の拡充を図り、医師の資格もない吉郎の理事長在任期間を延ばしてきた事実は病院関係者の誰もが知っていて証言している」
種子田が逮捕された直後の平成14年1月、他の暴力団関係の債権者がゴルフ場や種子田の東京と宮崎にある自宅を売却したり競売にかける事態が起きた。そのうち宮崎市内の和風邸宅の競売では、種子田のダミーと見られる「汗牛社」が一旦は自己競落した後の平成17年3月に長男吉郎が個人名義により売買で取得し、さらに同年12月に医療法人晴緑会(高知総合リハビリテーション病院と宮崎医療センター病院を経営)に転売したという事実は、まさに病院グループ及び病院グループのトップたる長男吉郎が種子田の支配下にあることを明確に示しているのではないか。なお、汗牛社が種子田のダミー会社であることは、東京商銀信用組合が事件直後にこの和風邸宅に競売の申立をし、種子田(汗牛社)が慌てて資金を調達して自己競落した事実からも明確だった。
そのようにみると、種子田が主張して止まない「病院に関与していない」という言葉は絵空事に過ぎず、「病院」という財産を密かに親族名義で蓄え、T氏が手を出せないような構図を構築してきたことに他ならない。そして、法律を悪用して財産を隠匿し、原告関係の多くの債権者を泣かせ続けている行為を決して許容してはならない。私的財産の“本丸”である病院を息子の吉郎が任せられているのであれば、吉郎は当然、父益夫の負の部分も引き継がなければ不当と言わざるを得ない。
「種子田の側近だった田中(延和)や梶岡が辞めるときに、T氏に挨拶に来たが、種子田には本当に悪すぎてついていけない、T氏の前でも何度も涙を流して借金を懇願していたが、それも全てジェスチャーで帰りはいつも『してやったりの苦笑いであった』と言っていた」(関係者)
田中も梶岡も種子田の借金の返済でT氏たちに言い訳ばかりを言わされていたが、種子田は側近ですら庇う気にもなれないほど悪すぎるという。種子田は灰皿や食器一つを割っても、「これは、全部、自分のものだ」と言って怒鳴りつけたが、500億円以上の債務を負っていながら責任を果たさず、吉郎の支配下に置くようなやり方は決して許されることではなかった。まるで人を騙すことが生き甲斐になっているのではないかと思われるほど、種子田は牛久愛和総合病院をエサにして債権者たちを騙し、病院という事実上の私的な蓄財を吉郎に託してきた。田中は種子田益夫からもらった高級時計を吉郎が理事長に就いた後に返したという。また、どれだけ貢献したか分からないほど頑張った田中への退職金は、たったの100万円だったという。
「種子田のボディガード兼運転手だった男に種子田が収監される前に『預かっておいてくれ』と言って頼んだ段ボール箱10数箱を、密かにT氏の会社に運んできたことがあった。男にしてみると、種子田のT氏に対する対応が余りに悪過ぎて、平気で人を騙し、種子田本人が実業と嘯いたゴルフ場経営は破綻寸前で担保価値など無いのに、価値があるかのごとく振る舞いT氏やT氏の知人を騙す行為を繰り返してきた。しかも、それでいてT氏やT氏の知人から集めた金を病院の買収や設備の拡充で積極的に集中的に使いながら、これは私的財産として誰にも渡さないよう工作する、などといったやり方が腹に据えかねたということだった。
段ボール箱がT氏の手に渡ったということで、種子田の後ろ盾になっていた日本有数の暴力団山口組芳菱会のNO.2がそれを返せと言ってT氏に対し『タマを取るぞ!』という脅しの電話を何回もかけてきた。T氏にそんな脅しが直接入ったことが数回はあった模様だが、その後は芳菱会の会長(故瀧澤孝)自身が直接面会してくるようになり、T氏は外出で会社を不在にすることが多かったことから部長が対応したのだが、部長によると瀧澤は『ワシは持病があって命は長くないので、命があるうちは種子田から頼まれればどうしても関わらざるを得ない』と言ったという。瀧澤は、言葉は丁寧だが、やはりトップとしての迫力があったようだ。次いで瀧澤は『種子田だって少しは返しているのだろう?』と尋ねたそうだが、部長が『最初の一部だけで、その後は一切ありません』と答えると、しばらく黙った後に『種子田のやっていることは、正直ワシも許せんと思ったことが何回もある。吉郎は父親が病院を利用して債権者を騙していることを良く知っていて知らん振りを通している。種子田自身がゴルフ場を担保にしながら、病院も事実上の担保になっていて、いつでも必要であればお返しすると吉郎が明言しているなどと言って時間を引き延ばしてきた。吉郎もそれに同調していたので、父親以上に悪質だ』と言ったので、部長は意外に思ったそうだ。そして、瀧澤は『ワシの用件を社長に伝えてくれ。ワシの死後は種子田に全額請求していいから』と言って帰って行った。その後も瀧澤は事前に連絡もなく会社に現れ、そのたびに部長が対応していた。社長の意を受けた部長もまた余計な話はせず、黙って瀧澤の話を聞いた後に『社長に伝えます』という返事をして終わるという面談が何回もあった。そして『様子を見ます』という社長の言葉を部長が伝えると、それが面談の最後となった。瀧澤は部長に草津の別荘の権利証(当時約1300万円の評価)を渡した。部長が『これは受け取れません』と返したが、瀧澤は『受け取ってくれ。これは気持ちだから』と言って権利証を置いたまま帰った。以後、瀧澤が来ることはなかったそうだ」
T氏に対して、病院の一部でも売却して返済原資を作るという話をすれば、問題は支障も無く解決するという簡単なことが種子田の発想には全く無いから、反社会的勢力を使ってまで、T氏を屈服させようとしたに違いない。
しかし、種子田は瀧沢に対してもひどい対応をした。5年ほど前の平成27年5月に種子田が「瀧沢に恐喝された」と警視庁に被害届を出したのだ。山口組元最高顧問の故瀧沢孝(芳菱会元総長)が、永らく種子田の“後見役”を名乗り、種子田がトラブルを起こすたびにその処理をしてきた人物であったにもかかわらず、種子田は平然と被害届を出した。瀧沢は警視庁の調べに対して「ガセネタだ」と容疑を否認したというが、種子田が身勝手にも瀧沢を排除するために捜査の現場と何らかの取引をしたのではないかという憶測すら飛び交った。しかし、それよりも種子田自身が瀧沢の協力でどれほど好き放題の振る舞いをしても身の安全を保証されてきた、というお互いの関係を一切無視して取った行動こそ、種子田の独りよがりの本性が表れていると言っても過言ではない。そして、吉郎も父益夫の血を色濃く引き継いでいる。