第4章 西の遺言
平成22年2月9日頃、西義輝は妻の実家がある秋田県の別荘で自殺していた。秋田県警の警官が「こんな自殺の仕方は初めて見た」というほど壮絶な死に様だったようだ。
西は、自殺を実行する前にA氏を始め、鈴木を含めて20人前後に「遺言」らしき手紙を書いていた。関係者の許可を得て鈴木へ書いた手紙の一部を紹介する。
西は鈴木に対して、
「二人だけではなし得なかったことをA社長に全面的に資金面の協力をしていただいて成功した数々の株取引・・・」
「私亡き後、貴殿はA社長に対して言い訳も一切できないし、今までのように逃げ回ることもできなくなる。貴殿がすることは、ひたすらA社長にお詫びをして約束を実行するだけである。この私の忠告を理解できないのであれば今後、貴殿は間違いなく私より、もっと辛いそして苦しい結果を迎えることになる・・・・」
「今から文章に残すことは全て真実であり、貴殿の身内関係者だけでなくマスコミ及関係各所にも貴殿の今後のやり方如何では大きく取り上げられる事を先に述べておく・・・」
「社長と私、貴殿の三人で合意したいくつかの約束事に関する裏切行為、私のあさはかな考えから貴殿の狡賢さにコントロールされ、社長に大変な実害や信用を傷つけた件、社長を利用することにより与えた大きなダメージなど、貴殿と私でおこなった社長への大きな裏切りを考えたら私の一命をもっても償えることではない・・・」
「私のこの手紙の内容については貴殿が一番わかっていることだ。社長及私の助けだけで誰も協力してくれなかったころの貴殿を今一度しっかり考えるべきである・・・」
「貴殿が株取引で手にしたお金の内、2/3は合意書に基づいた社長および私の預かり金であることを忘れてはいけない・・・」等、その他「合意書」や「和解書」のこと「志村化工事件」のこと、「株取引で400億以上の利益を上げて隠蔽している」こと等、鈴木と出会ったころからの事が書かれていてA氏に対してお詫びは勿論、相当の覚悟をして自分の命を絶つ覚悟が18枚の便箋に書いてある。
筆者はどうしても西に言いたい。私だけではなくA氏の関係者、ネット記事の愛読者の方々も同じ思いだろう。
「西さん、そこまでの覚悟をしていたのなら、何故生きて鈴木と対決しなかったのか。それだけA氏に申し訳なく思っているなら、何故鈴木の共犯者として法廷ですべてを話さなかったのか。鈴木は貴殿が自殺したことをいいことに、肝心なことは貴殿のせいにして自分に都合のいいように嘘の主張を続けた。結果、裁判官の明らかな誤審もあって、裁判は鈴木の勝訴で終わってしまった。A氏に世話になった人たち、友人、関係者の方々は「勿論これで終わらせるわけにはいかない」と今後のことを協議し、準備している。
西が経営していたTAH(東京オークションハウス)での鈴木との出会いから始まって親和銀行事件の事、FR社に絡む株取引、特にA氏から借りた資金の事、「合意書」の事も書かれている。この手紙を読んでいると、A氏にいかに世話になったか、A氏を裏切ったことへの深い後悔、鈴木への忠告、怨嗟が書かれている。読んでいて辛い思いがすると共に、鈴木の非道さ、悪辣さに改めて怒りを覚える。
しかし、西も最後は自裁をして果てた。厳しいようだが同情の余地はない。鈴木と同じとは言わないが、A氏とは付き合いが長い分、出会ってから世話になりっぱなしで何の恩返しもしていない。それどころかA氏が鈴木に融資した資金の一部を流用していた節がある。西も金の盲者であったのだ。
西の回想録
西義輝が残した「鈴木義彦との出会いから現在」というレポートがある。このレポートそのものは法廷に提出されなかった。何故原告代理人弁護士が提出しなかったのか不思議でならない。明らかに代理人弁護士の手抜かりではなかったかと思わざるを得ない。
西は、1995年(平成7年)10月6日に恵比寿ウェスティンホテル2階にある中華料理「龍天門」の個室で鈴木と会った、という書き出しのレポートは、西が平成7年10月~平成18年10月までの11年間を綴ったものだ。
「平成8年4月頃、長崎にある親和銀行に大きな問題が起こっていて、問題解決に協力してFR の資金繰り悪化を打開するために新たな資金を親和銀行から調達したいという相談を持ち掛けられた。鈴木はこのことを必死で考えていた」
この件については親和銀行事件のところで詳しく書いたが、鈴木は平成10年5月31日に不正融資事件で警視庁に逮捕された。その結果、有罪判決(懲役3年執行猶予4年)を受けた。この事件でも鈴木は持ち前の悪党ぶりを充分に発揮するのである。総会屋や某暴力団組長と組んでマッチポンプを仕掛けて脅かしをかけて、価値のない不動産(山林40万坪)や偽造ダイヤモンドを担保に莫大な金額を融資させた。また鈴木は、親和銀行を安心させるために同銀行の頭取や東京支店長を守るという約束が必要だった。そのために西が紹介した有名な弁護士、田中森一(故人)を親和銀行に紹介し、田中は顧問弁護士に就任した。の肩書を利用して32億円という追加融資もさせた。不正な融資合計は100億円以上だといわれている。
まさに稀代の詐欺師である。しかもこの時も100億円以上の融資金の返済をしていないし、最初から返済する気はなかったのだろう。ただ、最終的には損金補填という名目で17億円の示談金を払わされた。それでも融資額の約17%である。その金はどこから出てきたのか? 時期が前後するが、鈴木が山内興産の社長、末吉和喜氏を騙して預かった「タカラブネ」株200万株(20億円相当分)の返還をめぐって起こされた訴訟でも和解交渉を進めていた鈴木は末吉社長に対して約4億5000万円(総額の22%)の返済額を提示して和解に持ち込んだ。その和解金の出どころはどこなのか? どちらも隠匿している資金の中から支払ったと思われる。この示談金額は紀井氏の証言にもあったように一般の貸借では「鈴木は貸した側の弱みに付け込んで借りた金の5%から10%しか返さない」という鈴木の狡い悪性が出ている。鈴木の本領発揮である。それとこの2件の示談成立には当時代理人をしていた長谷川元弁護士が深く関わっていた。
「親和銀行特別背任事件」の裁判資料に鈴木の犯した罪の内容が書かれている。裁判官たちは鈴木という人間を知るために何故、参考にしなかったのか。それをしていればこんな判決を出さずに済んだ。いや、裁判資料は読んだが目をつぶってしまった可能性もあると思われる。その根拠は今後に書く【裁判所の状況】を参照すれば御理解頂けると思う。
親和銀行事件で逮捕、起訴された後、鈴木は表向きにはFR社の代表権が無くなり、保有株の名義もなくなったが、実際はそうでなく「なが多」「クロニクル」と社名を変更する中で常務(その後は代表取締役)の天野裕に指示してユーロ債の発行や第三者割当増資を実行させるという影響を行使していたのだった。天野氏が自殺? していなければ、このことも明るみになっていただろう。
宝林株で巨額の利益を獲得して勢いづいた鈴木と西は「今後のM&Aの専門的な会社を作る必要がある」と考え「ファーイーストアセットマネージメント」(FEAM社)を資本金5000万円で設立した。「ユーロ債発行会社との交渉やコンサルティングを会社設立の目的」としたが、鈴木は実に自分勝手な要求を西に出した。その一つが専用車と給料の提供で、「鈴木は『FEAM社より専用の車と専属の運転手を用意してほしい。』と言い、さらに『収入があることを見せたいので給料を出してほしい』とも言った」。何を考えていたのか言いたい放題であったと関係者は言う。そして「関西のグループとの付き合いもあるので私も見栄が必要になってくるから車はベンツにしてほしい」と横着な要求には果てが無い。ベンツ購入代金が1400万円、運転手の給料が1999年9月から翌年12月までで1200万円、燃料費、維持経費で250万円、給料に至っては2250万円も払ったという。さらに毎月の給与として鈴木の父親に60万円、愛人に50万円でそれに伴う費用が合計2000万円。また、鈴木と大石(FRの専務)は親和銀行事件で公判中だったこの当時に鈴木は、西に大石の口封じをしたいと言い出し、口止め料として5000万円を大石の妻に西を介して渡した。しかし、その後大石は車の事故で死亡した。これも偶然の事故だったのか。常務の天野氏の京王プラザホテルでの自殺(会社発表は自宅で急死)と同様だ。隠匿している自分の金は絶対使わないで、西に無理を言うとんでもなく狡い人間だ。西は何故こんな我儘を許したのか。すべては「利益折半」の約束のためだったのか、それとも鈴木に弱みを握られているとしか考えられない。西にこんな資金があるはずはない。同社にも約7億円をA氏に融資してもらっている。この二人は本当に呆れるほど酷い人間だ。
鈴木と西の密約
以下は、西の回顧録からの抜粋である。
西は、鈴木に連絡して2001年(平成13年)11月に鈴木が借りたホテルオークラのエグゼクティブフロアーの一部屋にて鈴木との間で、英文による契約を結んだ。それは「この契約日から5年以内に、総利益の内の経費を引いた3分の1を、契約に基づいて西義輝に支払う。但し、年に一度は利益の推移を必ず確認することとし、契約期間は2006年11月末日までとする」という内容だった。この書面はA氏と西、鈴木が交わした「合意書」とは違い、A氏の名前がない。その理由として鈴木は「以前にA社長とは14億円の利益配分をしているのでこれ以上を支払う必要性は無い。但し、借りている18億円(実際は元金28億円超)に関しては、解決の方法は考えているから」と西に言ったという。鈴木は常々、「鈴木は、国内にはいないと言ってほしい。名前は出さないでほしい。FR社を絡めた部分で300億円の個人補償をしているので表に出るわけにいかない。また、ユーロ債の新株発行に関しては自分が表に出て行えば利益を稼ぐことが難しくなるので」とさまざまな機会で何度も西に言っていたらしい。西はその時に「鈴木は周囲の人達から逃げようとしている」ことを察知した。
西が言うには「契約書を作成することになったのは、鈴木の身勝手な言動とこれまで2年間の鈴木の行動に対する不信感からだった」そうだが、それ以上に志村化工株の大量買い付けにより、東京地検特捜部から西に捜査の手が伸び、証券取引法違反による逮捕が固まりつつあったことが原因だった。鈴木も志村化工株売買によるインサイダー容疑での逮捕が確実で、もし逮捕されることになれば、今までのあらゆることが表に出てしまい、お金の流れも暴かれてしまうことになり、努力が無駄になると西は考えた。また鈴木には親和銀行不正融資事件により4年間の執行猶予がついていたため、次に逮捕によりすべての刑が鈴木に覆いかぶさってくる。この英文契約を結ぶ条件として、西は鈴木を逮捕から守ることを約束したのだった。
鈴木は、自分に危機が迫っていることを分かっていて、何度となく西に会って必死に口裏合わせをした。そして「西会長の言うことは何でも聞きます。助けてください」と土下座までした。平成14年2月27日、西は証券取引法違反の容疑で東京地検特捜部に逮捕された。
拘置所にいる時の検事の取り調べは本当に過酷なものだった。西と検事の間でさまざまな駆け引きが行われていく中、西は保釈に至るまで鈴木のことは一言も話さず、最後まで鈴木を守った。結局、鈴木のこの件での逮捕はなかった。その年の3月末にすべての取り調べを終えて起訴された後に西は保釈された。西は、逮捕されたことはあくまで自分の責任で判断し実行した結果での失敗と割り切っていた。
志村化工株の株価操作事件の逮捕劇から西の保釈後、鈴木は今までと変わらぬ態度で接し、約束通り、保釈金の立替、毎月の生活費用(100万~150万円)、弁護士費用等を払い、裁判の結果が出るまで非常に密に意見交換を繰り返していた。仮に公判中であっても、西の言動によって鈴木の逮捕は有り得たから、鈴木の秘密を知っている西に対し鈴木は大事に扱っていた。
2003年(平成15年)の夏、西の刑が確定し、懲役2年、執行猶予3年の判決が下った。すると同年9月、鈴木から「一度ゆっくり話がしたい」と連絡が入った。西は西麻布の喫茶店で鈴木と会った。その時鈴木は西の事を「西さん」と呼ぶようになっていた。それまで鈴木は西の事を「西会長」としか呼ばなかった。西は、鈴木が裁判が終わった途端に態度を変えたことに驚いたが、それ以上に驚いた事は「西さんへの毎月の生活費の支払いをそろそろ止めたい」と言われた事だった。西はその時腹の中が煮えくり返っていたが、鈴木に「執行猶予が切れたら約束通り契約を実行していただきたい」と一言だけ言った。親和銀行事件の時には保釈中に愛人の生活費まで面倒を見ていた西にとっては当然の事だっただろう。西はその時約300億円以上の利益が積みあがっていることを鈴木から伝えられていた。西が「自分には多額の借金があり、それの清算をしなければならない。勿論A社長にも返済しなければならない金額がたくさんある。」と言うと、鈴木は「Aは俺には関係ないだろう。西さんが取り分をどうしようと勝手だが俺は14億円の分配金と10億円の借入金を返済しているのでもう全てが済んでいる。俺と一緒にはもうしないでくれ」と言ったという。それが自分の窮地を救ってくれた恩人に言う言葉なのか。流石の西もこの時は鈴木を「なんという非人間的な奴だろうと思った」と記している。西はその日はそれで終えたが、その直後から鈴木の携帯電話が繋がらなくなり、紀井氏経由でしか連絡が取れなくなった。ただ、西が必要に応じて電話すると鈴木から必ず連絡があったので少しは安心していたそうだ。筆者は、西もそうだが鈴木は呆れた悪党だと思った。
後日、西の恐ろしい裏切りが発覚した。西はこの鈴木との「密約」の一部、30億円を受け取っていた事が西の身近な人間からの取材で発覚したのだ。この金はA氏に返済された形跡もない。当然にA氏もこの事は最近になって知った事であった。この金の使途は? 今更詮索しても意味の無いことではあるが、西と鈴木、何が嘘で何が真実か、弁護士、裁判官も共謀しての大事件。A氏と関係者がこのまま泣き寝入りすることはあり得ない。
香港襲撃事件
続いて、西の回顧録からの抜粋を挙げる。
西と鈴木は2005年(平成17年)10月に東陽町のホテルイースト21のスカイラウンジで打ち合わせをしていた。(会話を再現する)
西 :「来年(2006年)の8月に執行猶予が終わってパスポートを手に入れることが出来るので徐々にお金の用意をしていただきたい」
鈴木:「今200億円程度の利益しかない」
西 :「言い訳しないで400億円以上の利益に対しての3分の1の分配金としよう」
鈴木:「株券の在庫が多く、西さんが言っている金額は全ての株券の売却をしなければ金が揃わない」
西 :「本来、当初の取り決めは、A社長、私、鈴木さんで均等にて分配するという約束であったはずですよ」
鈴木:「A社長と結んだ合意書及び借用書は2002年(平成14年)に破棄したと言ったじゃないですか」
西 :「この話は、貴方と私の間で結んだ契約書に基づいてのことですよ」
西は、これらのやり取りを総合して考えると、おそらく鈴木は自分の思っていた以上の利益を得たために、私への配分を減らすことを考え、私を丸め込めることが出来ると考えたと思う。何故かというと、会話の中で「西さん、お金に困っているのであれば1億くらいのお金を融通することは出来ますよ。どうしょうもない時は言って下さい」ということを言っていた。また、A社長の名前が出たときは「社長は関係ないだろう。貴方が取りまとめてくれるって言っていたじゃないですか、帳尻合わせは全て済んでいるはずですから」と言う言い方さえしていた。私はその時、過去を思い出した。合意書を交わして始めた株取引では、企画、発案、取りまとめに関しては私の役割で、鈴木は株式の売却の役割を担っていたが、実際の売却に関しては紀井が90%以上担当しており、また、お金の管理は茂庭の力を借りた。色々なユーロ債と口座の開設に関しては、元フュージョン社の町田、川端を使い、いつも役割ごとに人を活用していた。そんな中で、鈴木とは金のやり取りの方法に関する連絡を密に取っていたが、最終的には平成18年10月初めに、香港での約46億円の受け渡しをすることになった。鈴木は「マネーロンダリング法が脅威となっているため、香港での取引は全て現金で行わず、日本から海外に持ち出されている銀行振出の銀行小切手にて行いましょう。そして残りに関しては。海外のオフショワ口座を2社ほど開設し、その後三ヶ月以内に約90億のお金の振替を必ず実行します」と言った。そして9月30日の鈴木との会話で西は10月2日に香港へ向かうと言って、インターコンチネンタルホテル香港に宿泊すると伝えた。鈴木が「西さんが以前の打ち合わせの際に私の紹介で面会したことのあるTamという人間と香港で会い、打合せを行ってください。私も時間があれば香港に行きますから」ということを西に伝えた。
西が香港に着くと鈴木から電話が入り、「10月3日の14時にTamが香港での専用携帯を渡します。私はどうしてもやらなければならない仕事が入り香港に行けません。西さんもTamとは会ったことがあるので、今回はTamとの取引でお願いします」ということだった。その後、Tamから携帯電話を受け取り、同日の16時に香港島のリッポセンターの2Fロビーで待ち合わせをし、一部保証小切手の確認することになった。しかし、Tamが用意していた小切手は約17億円分(23枚)で、「残りの29億円は市場で今集めており、10月4日の午後には全額揃うので、責任をもって渡す」と言うので了解した。
そして、翌4日の午後8時にリパレスベイのレストランで待ち合わせすることになったが、実際にはTamが遅れ気味となり、西が近くの公園を散歩しながら待っていると、午後8時半過ぎにようやくTamが現れ、車の中で46億7000万円の小切手を確認し、オフショワ会社設立のための書類へのサインをしたほか英文契約の金額の一部変更へのサインも済ませた。西はビジネスファイルバッグに書類と保証小切手を入れ最初に待ち合わせたレストランに向かおうとするとTamからワインを勧められ、それを飲んだ直後に意識を失った。それから16時間後、西はリパレスベイの浜辺で発見されたが所持品は無く、契約書類、小切手、携帯電話もなくなっていた。着用していたスーツは破れ、靴は砂まみれの状態、とても再使用できる状態ではなかった。
3日間の入院後、西は体調の回復を待ち病院を退院した。日本領事館での説明、そして領事館から紹介された弁護士へ対応を依頼して西は帰国の途についたが、ここでもまた西は香港警察や領事館からの聞き取りに鈴木の名前を出すことは一度もなかったと西は記している。この香港行きにはA氏を一度誘っている。A氏は急な西の誘いだったが同行する用意をしていたところ、直前になって西から断りの電話が入り、何が何だか分からないまま香港行きを中止した。西はこの時、息子の陽一郎だけを同行していた。